私を愛しているとささやく男の話

 

 

***001 きんいろの瞳の男の話 / 2012.0226

 

「おまえを愛しているよ」

 

やさしい声が響く。おおきな手が、髪をなでた。いとおしげに髪をなでる手はいつまでもいつまでも感触を残し、触れた部分にだけぬくもりがまとわりついている。あいしているよ、と口の中でつぶやくと、唇の端が持ち上がった。その言葉の意味を知らないのに、何故だか口角が持ち上がるのだった。笑う方法を知らぬのに、いま、自分は笑っているのだと知る。一体、どんな表情をしているのか知りたくて、周りを見回したが、自身の姿を映すものはなにひとつなかった。散々、首を回して探したあとに見つけたのは、愛しているよ、とささやく男の瞳だった。きらきらしい、きんいろにかがやく瞳に自分の姿を見つける。自分の姿だと思ったのに、自分ではなかった。ぱちぱちとまばたきを繰り返して、首をかしげる。瞳の中の、見知らぬ男も、まばたきを繰り返し首をかしげていた。緑色の布をかぶっている。見知らぬ衣服をまとっている。清潔で、返り血のあともなく、うすよごれても、すりきれてもいなかった。顔や頭にたよりなく巻きついてる包帯も、なかった。あれは一体、誰だろう。きんいろの瞳の中の男は、同じように首をかしげてこちらを見ているのに、その黒い目は細められ、口元にやさしい笑みが浮かんでいる。自分にはあんな表情はできない。あれは誰だろう、また思う。それから、きんいろの瞳の男が「愛している」とささやくのは、あの男なのだと理解した。そう、おさなく、人を殺す方法しか知らない、自分ではない。

 

 

追いやられた部屋の隅で、丸まって浅い眠りに身を委ねていたジャーファルは目を開き、緩慢な動作で瞬きを繰り返した。目の前に広がるのは、薄暗い部屋だ。月明かりが窓から差し込み、普段よりは明るかったが、それでも薄暗くて、埃の匂い、血や汗の匂いが混ざり合い、澱んだ空気に満ちている。暗さのせいか、匂いのせいか、部屋にいる時はいつでも息苦しい。部屋で寝ている者を起こさぬように、短く息を吐き出す。誰かの眠りを妨げれば、殴られるか蹴られるか、暴力が与えられる。

身じろぎをし、改めて眠りの体勢に入る。部屋に数台の寝台はあったが、年上の同業者が眠っていてジャーファルは使うことができない。体に被せる布はなく、冷える夜の外気にちいさく体を震わせた。すこしでも体温を減らさぬようにと、自分の体を抱き込め、丸くなる。目を閉じる。目蓋の裏に、金色の瞳をした男の姿が浮かんだ。あんなにやさしい瞳をした男を、ジャーファルは知らない。あいしている、胸の中で呟く。やはり言葉の意味はわからない。あいしてる。言葉を繰り返す。あいしてる、その意味を知らないのに、何度でも何度でも繰り返したくなる。胸の中に浮かぶ言葉を、指でなぞりたくなる。言葉ごと抱きしめるように、自分の体をきつくきつく抱きしめた。あいしてるという言葉を繰り返す時だけ、不思議と体があたたかくなった。

夢は、時折見た。満月の浮かぶ、静かな夜にだけ夢はやってきて、ジャーファルの心を慰めた。けれども、それは救いではない。あまりにやさしい夢だったから、朝がやってくると心臓が痛くてたまらなかった。夜中に目覚めては、周りが薄暗いことに安堵して、何度も目を閉じた。目を閉じれば、男の姿が浮かんだ。男は髪を撫で、ジャーファルの頬をあたたかい手のひらで包み込み、笑う。宝石のような瞳が細められ、ただジャーファルだけを見る。ジャーファルを真っ当に見る人間はいなかった。誰も彼も視線を合わさず、命令し、存在をないものと扱い、時折嫌悪に満ちた一瞥をくれて、すぐさま逸らした。または恐怖に見開かれた瞳を向けるばかり。

誰かに見つめられることも、視線を逸らされることも、ジャーファルにはどうでもいいことだった。例え、誰が見ようが、無視しようが、危害が加えられないならばそれだけで良かった。それなのに、男が、ふとした瞬間にジャーファルから視線を逸らすと、それだけで胸が苦しくて苦しくて、息が出来なくなった。だから、いつかこの男に殺されるのだろうと思った。怖くは、なかった。

金色の瞳に写る、自分に似た、けれど似ていない男は、いつも緑色の布を金色の頭飾りで留め、見慣れぬ衣服を着ていた。腕には、赤い紐が巻きついている。自分の腕に視線を落とし、武器をじっと眺めた。刃物部分から赤い紐が伸び、腕に巻きついている。同じ武器だ。男の腕に巻きついている赤い色は、何故かあたたかい色をしていた。再度、自分の腕に巻きついた紐を見る。同じ色の筈なのに、何かが違った。冷淡な赤色。幾人の血を吸い、重たくなって、呪いのように幼い体を縛っている。どうして違うのだろう、疑問に思う。何度見比べても同じ色、同じ武器なのに、ちっとも同じではなかった。

時折、瞳の中の男は、不機嫌そうに眉を寄せていた。そのくせ、隠し切れない親しみが黒い目に満ちている。唇が動く。何を言っているのかはわからなかったが、怒っているのだと感じ取った。怒られているのに、金色の瞳の男は楽しげに笑う。宥める言葉を口に出し、それから「あいしているのだから、そんなに怒らないでくれ」とささやいた。更に何事か言葉を投げつけられているのに、機嫌を損ねることなく笑うばかりだった。

ジャーファルには理解ができなかった。怒る、という感情を目の前にした時、付属するのはいつだって暴力だった。頬を殴られ、髪を掴まれて壁に頭を打ちつけられた。怖いと思ったことはなかったが、痛みはあったから、殴られた場所を押さえてうずくまれば、無防備になった部位に拳や足が振り下ろされた。そんなことは多々あったし、日常の一部だった。暴力によって、同じ年頃の子供が死ぬ場面も幾度か目にしたから、どれほどの痛みに晒されても生きているだけ良いのだろうと思っていた。期待も、希望も何もなかった。そのことを悲しいとも、苦しいとも感じたことはない。最初から存在しない物だったから、欲しいと願う思考すらなかった。

けれど夢を見るようになってから、ひとつの願いができた。夢に出てくる男の名前を知りたい。いままでジャーファルには無関係だった、やさしさのこもった視線を注いでくれる、金色の瞳の男の名前を。名前を知れば、何かが変わる、と思った訳ではない。おそらく何も変わらない。誰かを殺し、いずれ誰かに殺されるまで、同じ日々がずっと続くばかりだ。それでも、知りたいと願った。それが生まれて初めて、ジャーファルが望んだものだった。

 

 

 

***002 しずかな夜 / 2012.0226

 

ある夜、王がささやいた。手を伸ばし、寄り添う男の頬を撫でる。今宵は良い月夜だ。丸く太った月に、雲が従い、星がきらめている。月明かりが窓に掛けた薄い紗を通り、部屋をやわらかい光で満たしていた。王とその部下は、王の寝台で見つめ合っている。王は鍛えられたその身を長々と横たえ、部下は正座して坐っていた。王の頭は、部下の膝の上にある。

「俺は時々、お前の目の中に、幼い子供を見るんだ」

シンドバッド王は、部下であるジャーファルの黒く丸い目を見上げ、その目に己の姿を認めると、ちいさく肩を揺らして笑った。ジャーファルは、といえば、ぱちぱちと瞬きを繰り返した後、曖昧に「はあ」と零した。王の戯言には慣れている。慣れてはいるが、振り回されてしまうのは性分としか言いようがない。相手が敬愛して止まない王ならばなおのこと。シンドバッドは続ける。

「目を見開いて、じっと俺を見つめ返してくる子供は、頼りなくて見ていると抱きしめたくなるほどに哀れな姿をしている」

哀れ、口の中で呟き、言葉の意味を考える。憐れみや同情をくれる人は数人いた。ジャーファルの過去を知り、かわいそうだ、俺ならば到底堪えられない、と哀れむ視線で何度も繰り返した。嫌悪を浮かばせる人間の方が多かったとはいえ、同情をくれる人間も少なくはなかった。私はかわいそうだったのか、ぼんやりと思ったことを覚えている。何度かわいそうだと繰り返されても、自分自身そうは思えなかった。ずっとあのままでいたかった訳はない。ただ、あの過去があるから、シンドバッドに出会え、シンドバッドのために力を奮える。

ただシンドバッドに哀れだと言われると、そうだったのだ、と素直に思えた。シンが傍にいない過去の私はなんと哀れなのだろう。けれど、いま、シンは傍にいて、私の膝の上で寛いでいるではないか。

昔の話ではないのだ、と思い直して、再度言葉の意味を考える。シンドバッドの言葉を繰り返して、意味を考える時、ジャーファルは胸に血が通う感触にどこかうっとりとした気持になった。だから、どんなにくだらない言葉でも繰り返した。

思案の後、シンはいまの私に哀れな、幼い子供の姿を見るのだ、と口を開く。

「……それは、私がまだ子供だと、そうおっしゃりたいのですか?」

「違うよ、ジャーファル」

シンドバッドは手を伸ばし、手のひらで頬を包み込む。

「俺はいつでもお前の傍にいる、ということだ」

ジャーファルの眉根が寄る。

「そりゃ、私はあなたの部下ですから、いつでもあなたのお傍にいますけれど」

「お前が俺の傍にいることと、俺がいつでもお前の傍にいるということは全然違う話なんだ」

「……わかりません」

「ジャーファルのくせにわからないというのか」

「私のくせにってなんですか」

「いろんなことを学んだろう」

「ええ、それはもう、たくさんのことをあなたの傍で」

「ならばわかる筈だ」

ジャーファルは困りきった表情を浮かべ、シンドバッドを見つめる。金色の瞳は楽しげに細められ、ジャーファルを見つめていた。黒い瞳に映るのは、優しく微笑んでいるシンドバッドだ。

「俺はいつでもお前の傍にいる」

ささやき、頬を撫でる。シンドバッドの手のひらはおおきくあたたかい。その手で触れられると、ジャーファルは、胸のやわらかいところを掻き回され、それから優しく宥められているような感覚に陥った。

目を細めて微笑むシンドバッドの姿にジャーファルは思う。私を子供扱いしている、と。いや、子供扱いではないのだろう。シンドバッドは子供を手放しで可愛がる質ではない。幼い子供であろうが、力があれば認め、働く場所を与えてくれる。だからこそジャーファルはシンドバッドのために思う存分力を奮うことができた。どれだけ嬉しかったか、シンドバッドは知っているだろうか。

「もっとわかりやすく言ってやろう」

銀色の髪を指先で梳くシンドバッドは、ジャーファルを子供扱いしているのではない。ただ、愛おしいのだ。愛おしいから、触れたくて、それから甘やかしたくなるのだ。そのことをジャーファルはぼんやりと思う。

「俺は、俺と出会っていないお前の傍にだって、いるんだ」

おかしなことを、と否定する気にはなれなかった。シンドバッドがそう言うのだ。きっとそうに違いない。

ジャーファルは、シンドバッドと出会わなかった自分を想像することができない。シンドバッドを知らなかった幼い自分はすでに死んでいて、どんなことを考えていたのか、どんな日々を送っていたのか、覚えてはいるが、どこか別世界の出来事に思えた。あの頃の自分と、今の自分を上手く結びつけることができない。けれど、確かに繋がっていた。幼い頃から握り締めてきた武器は、手のひらに馴染んで、体の一部のようだったし、人を殺す術は全て頭の中に知識として蓄えられており、体にも染みついていた。その知識も術も同じものなのに、どこかが決定的に違っていた。

 

 

ジャーファルは時々夢を見る。シンドバッドに出会っていない自分の夢だ。満月の浮かぶ、静かな夜に。王との戯れの後、自室に帰り、寝台に横たわると普段は見ない夢を見た。

シンドバッドは、ジャーファルの白銀の髪が月の明かりで反射し、輝くさまを好んでいる。だから、満月の夜はいつも部屋に呼ばれた。何をするでもない。あのおおきくあたたかい手のひらで頬を包み、優しく微笑み、ジャーファルを見つめるのだ。ジャーファルはいつも、シンドバッドの金色の瞳の中に穏やかに笑う自分の姿を見つけた。それがあまりに穏やかで幸せそうなので、首を傾げることもあった。王の傍にいることはジャーファルの幸せだ。それでも、不思議に感じた。自分にあんな表情が作れるということに不思議を感じているのかもしれなかった。

シンドバッドの手が布を留めている頭飾りを外すと、緑色の布はするりと頭部から滑り落ちた。白銀色の髪が零れて、乱れる。それを丁寧に指で梳き、今度は頭を包み込み、額に口付けた。頬を包み込まれることも、髪を撫でられることも、口づけを贈られることも、すべて慣れ切ってしまって、与えられないことなど考えられない。それほどまでに、ジャーファルは、シンドバッドが与えてくれる愛情に慣れてしまった。幼い昔は、与えられなくて当然だったものが、与えられないのはとても悲しいことだと知ってしまった。そのことを思う度に、私は王から離れることはできない、と思った。

髪や頬に触れた、王の指を、手のひらを思い返す。胸が甘く疼いて泣き出したくなった。吐息を零し、目を閉じればひっそりとした闇が視界を覆う。今晩も夢を見るだろうか。

 

 

 

***003 ころせなかった男の話 / 2012.0228

 

幼いジャーファルは、薄暗い部屋の隅で目覚め、先ほど見た夢を脳裡に描く。金色の瞳に写った、もうひとりの自分の姿を思い返した。緑色の布の下から零れた白銀色の髪は、とても美しく見えた。自分の髪を一房掴み、見つめる。薄汚れて、月の明かりに照らしても、輝きはしなかった。ことり、と首を傾け、あれは自分ではないのかもしれない、と思う。顔立ちや髪の色、武器も同じだけれど、あんな風に笑うことはできないし、髪だって輝かない。武器の赤色も何かが違う。未来の自分の姿だと思うこともできなかった。

ジャーファルは未来のことを考えない。考えたところで無意味だからだ。いつ死ぬのか、いつまで生きていられるのか。明日には死ぬかもしれない。いや、今日死ぬのかもしれない。死ぬのは、嫌だった。どうせ死ぬならばもっとはやくに殺してくれたらよかった、その思いはいつもこびり付いている。暴力に晒されている時や、暗殺に失敗して折檻を受けている時はいつも思った。もっとはやくに死んでいれば、こんな苦しい思いはしなくてよかった。だから、死にたくない。ここまで生きたのだから、しがみつきたい。ジャーファルが、死にたくない理由はそれだけだ。

暗殺に失敗した子供が、ひどい折檻の後、命を落とした。あれは最初ジャーファルに言いつけられた仕事だった。前日になって、怪我をして別の子供に言いつけられたのだった。

些細なことで年上の粗野な男を怒らせてしまって、腕の骨が折れるほどの暴力を受けた。仕事をしなければ、食事は減らされるし、部屋の隅で、誰の気も引かないようにうずくまっているのは息苦しかった。だから、最初は落胆した。だが、腕の骨が折れてしまってはろくに武器も操れない。腕はずっと痛むし、発熱し、寝込む羽目になった。すえた匂いのする寝台に横たわりながら、いつ死ぬのだろうと思った。医者は面倒そうに腕の様子を見て、包帯を巻き、痛み止めの薬を数粒口の中へ放り込み、去っていった。「どうせすぐに死ぬ」と呟かれた言葉が頭にこびりついて、死という言葉に取り憑かれる。

床で眠る羽目になった年上の同業者は舌打ちと共に、ジャーファルの横たわる寝台を蹴飛ばした。いつも暗殺の命令を下す人間が来て、「それはまだ使えるのだからやめろ」と窘めたがそれだけだ。怪我の心配など誰もしていない。

薬と熱のせいで頭が朦朧とする。やさしい手が欲しかった。夢の男ならば、頭を撫でてくれるだろう。それから、どんな言葉かはわからないが、労りの言葉を与えてくれる。今日が満月であったなら、夢を見ることができるのに、夜空に浮かぶのは猫の目のような細い月だった。

熱に浮かされる頭で、命を狙われた男はどんな男だったのだろう、と考えた。夢の男が、もし、この世に存在しているのならば、いつか出会うのではないか。努めて考えないようにしていたことだ。もし存在していて、その男を殺せと命令されたら。自分に殺せるだろうか、と問うが答えは出せなかった。殺したらもう二度と夢に出て来てはくれないだろう。だが、一体誰が男を疎ましく思うというのか。あんなにも優しい目をした男を。

ジャーファルの代わりに命を受けたのは、ひとつ上の少年だった。小刀を持ち、懐に忍び込み、首を掻き切る。一撃で仕留められずとも、刃の先に毒が塗ってあり、切っ先が触れただけで体が痺れ、身動きが取れなくなるのだった。彼の少年は一度も失敗をしたことがない。ならば、今日の標的も今頃物言わぬ屍になっているだろう。どんな男だったろう、ジャーファルは考える。醜い男ならばいい。醜悪で、優しさの欠片もない、極悪非道の男。どうしてか、今回に限って殺す筈だった男のことが気になった。

薄れる意識の中、洋燈の灯りが丸い月に見える。いつの間にか深い眠りに引きずり込まれていた。

 

「ジャーファル」

最初、名前を呼ばれているのだと理解できなかった。

「……ジャーファル」

瞬きを繰り返し、目の前の男を見る。男は真っすぐにジャーファルを見つめ、「ジャーファル」とまた名前を呼んだ。そこでようやく自分の名前を思い出した。もう久しく呼ばれることがなかったものだから、自分の名前を忘れてしまっていた。

「今日は、満月、じゃない」

突然響いた声に驚き、周りを見回す。ここにいるのは金色の瞳をした男と、ジャーファルだけだ。きょろきょろと声の主を探すジャーファルに男が笑い声を上げた。高らかに響き、空気を奮わせ、澱んだ空気を一瞬にして吹き飛ばすような笑い声だった。驚いて男を見る。

「お前の声は鈴のようだ」

声変わり前か、と微笑む男の言葉に、そろりと自分の咽に触れた。

「……今日は、満月」

指先に触れる咽が動いた。

「お前のためなら月だって太るさ」

いくら男の言葉でも、自分のために何かが変わるなんて到底信じられなかった。男の瞳を見つめる。

「あたま、なでて」

おそるおそる口を開いた。咽は、また動いた。自分が何を言ったのか理解して怖くなった。怖くなって逃げ出したくなる。恐怖の原因は、願いを口に出して伝えたことだ。ジャーファルは望みを口に出したことがない。望みそのものがなかったし、願ったところで叶えられる訳がないのだから、口に出しても無駄だと知っていた。それなのに、望みを口に出して伝えた。望みは叶えられないと決まっているのに。逃げ出したくてたまらないのに、男の傍から離れるのはそれ以上に怖かった。

男の、身動きが取れないジャーファルを見つめる目に変化はない。金色の煌めきも変わらない。

「お前の髪は、とてもうつくしい」

そうささやくと、手を伸ばし、髪を撫でた。髪の一房を指で摘まみ上げ、さらさらと流す。その手はどこまであたたかく優しかった。恐怖がほどけ、いつものように穏やかな気持がやってくる。自分の髪をうつくしいとは思えなかったけれど、どうでもよかった。男がそう言うのならば、それでいいと思う。男を見上げ、姿を焼き付けようと目を見開く。

「穴が空くぞ」

男は笑い、頭を両手のひらで包み込み、そのままわしわしと髪を掻き回した。あまりに乱暴に掻き回すものだから、数本の髪が引っ張られ、頭皮にわずかな痛みが走った。気にはならなかった。痛いのに、痛くなかった。男の手のひらは、ジャーファルの頬を包み、ぎゅっと力を込める。頬の肉が押し上げられた。

「ジャーファル」

男の声で名前を呼ばれると、体が明確な輪郭を持ち、血が通うのを感じた。生きているのだ、と信じられた。

「お前を愛しているよ、ジャーファル。俺のジャーファル。俺はいつでもお前の傍にいる。そのことだけは忘れるな」

その言葉を聞くと、咽が締めつけられて、息もできないほどに痛くなった。空気を取り込もうと喘げば、咽奥から呼吸が零れた。胸の奥をぐちゃぐちゃに掻き回されている気がする。苦しくて、苦しくてたまらない。視界がぼやける。きっとこの男は殺すためにやってきたのだ、と思った。殺されるのだ、この男に。心臓を押しつぶし、呼吸を奪い、目を潰す。それで良かった。いまなら殺されてもよかった。殺されたかった。それなのに、男は優しくジャーファルを見つめるばかりで、決して、あたたかく大きな、優しい手のひらを、細い首に掛けることはなかった。

 

朝の光が目蓋を撫でた。部屋の隅で寝ている時には気づかなかったが、薄暗い部屋にも太陽の光が差し込むのだった。光はあまりにも眩かった。手のひらを翳して、光を遮る。昨晩、夢を見たような気がするが、満月ではなかったから気のせいだろう。身じろぎをすれば、折れた腕が痛んだが、熱は引いていた。数日長引くと覚悟していたから、拍子抜けする。同時に、安堵した。今晩からはまた部屋の隅で寝ることになるだろうが、そちらの方が楽だったし、安全だった。

部屋を見回して、仕事を終えた筈の少年を探す。標的がどんな男だったか、どうしても知りたかった。だが、どこにも見当たらない。寝台から抜け出し、部屋の外へ向かう。部屋を出て、薄暗い中庭へと出る。あの少年はいつも中庭の隅で縮こまり、小刀を研いでいた。中庭の隅に塊が転がっていた。どこから忍び込んだのか、数匹の野犬が群がっている。塊に視線を固定させたまま、ジャーファルは立ちすくむ。もし、腕の骨が折れなければ、そこに転がっているのは自分だった筈だ。

 

 

 

***004 ふかい眠りの夜 / 2012.0228

 

夜中に目覚めたジャーファルは寝返りを打つと部屋の隅を見つめ、ちいさく息を吐き出した。寝台がかすかに軋む。起きあがり、窓から夜空を窺えば、浮かぶのは細い月だった。満月ではないと確かめ、寝台に戻る。

確かこんな夜だった、と横たわり、思い返す。シンドバッドという男を殺せ、と言い渡されたのは、猫の目のように細い月が浮かぶ晩だった。ジャーファルは暗殺に失敗し、それから拾われたのだ。あの息苦しい世界から切り離され、なにもかもを明るい色で塗り潰された。逃げ帰らずによかった、と思う。迷い、戸惑いながらも、あの手を振り払わずによかった、と。もっともシンドバッドの手はあまりに力強く、決して逃げ帰ることを許してはくれなかっただろうが。口元に笑みが浮かぶ。

笑う、ということを覚えたのも、シンドバッドに出会ってからだ。最初はぎこちなかった。頬の筋肉が動かないのだ。頑なに強張って持ち上がらない。それでも頑張って笑顔の形を作った。そんなジャーファルのぎこちない笑顔を前に、シンドバッドは腹を抱えて笑い転げた。いま思い返してもひどい。

笑うなんて、と眉を寄せたジャーファルの不服そうな表情にも笑い転げ、おかげでシンドバッドは三日の間、口を聞いてもらえなかった。機嫌窺いのために贈られた菓子は甘くておいしかった。あれで拗ねてみせることを覚えた。怒ることを覚え、悲しむことを覚え、誰かを大切に思う気持を覚えた。他にも色々なことを覚え、自分のものにした。シンドバッドはそれを傍らでずっと見守っていた。間違えたとしても、何も言わなかった。何も言わず、ジャーファル自身に何が駄目なのかを考えさせた。

 

ジャーファルは滅多なことでは夢を見ない。覚えていないだけかもしれない。眠りはいつも浅く、人の気配がすれば、すぐに目が覚めた。深く眠ることができるのはシンドバッドの隣りでだけだった。だから、シンドバッドと共に眠ることをジャーファルは好まない。深く眠っている間に、襲撃されることを考えるだけで怖かった。怖いくせに、シンドバッドの体温が隣りにあると深い眠りに引きずり込まれ、朝目覚めて呆然とするのだ。そのことに気づいたのは、野営をしていた頃だ。

野営をする時はいつも交代で見張りをしていて、その日、その時間の当番はジャーファルだった。ぱちぱちと火花が散る焚き火を見つめながら、膝を抱えていた。ゆらゆらと揺れる炎は見ていて飽きなかった。同時に耳や神経はぴりぴりと張りつめ、周りに配られていた。穏やかな寝息や身じろぎの気配は、マスルールやヒナホホ、ドラコーン、それからシンドバッドのものだ。まだちいさいのだから見張りなどせずに寝ろ、と言うヒナホホの言葉に首を振るい、大丈夫だと告げたのはジャーファル本人だった。こいつは一度言い出したらよっぽどの理由がない限り首を縦には振らないぞ、とどこか楽しげに加勢してくれたのはシンドバッドだった。

誰かが起きあがる気配に目を向けると、シンドバッドがのそりと体を起こしていた。まだ交代の時間ではないし、次の見張りはシンドバッドではない。

シンドバッドは眠たげな様子で、ジャーファルを見ると、もそもそと体を移動させ、幼い体を抱き込んでまた眠ってしまった。慌てて体を引き剥がそうとするも、力で敵う訳もなく、そのまま抱き込まれて腕の中に閉じ込められる。シンドバッドの体はあたたかかった。炎とは違うあたたかさは眠りを誘った。首を振るい、名前を呼ぶ。

「……すこし寒いから暖代わりだ」

そう言われると引き剥がすこともできなくなった。仕方なしに抱き込まれたまま、ヒナホホを起こそうと手を伸ばせば、その手も抱き込められた。

「お前も寝ろ」

ぎゅう、と腕に力を込められる。ですが、と言い募る声はもう聞こえないようで、途方に暮れる。体温のあたたかさと、伝わる心臓の鼓動に目蓋が重たくなってくる。眠ってはいけないのに、と必死に目蓋を持ち上げようとするも、シンドバッドの心地良い寝息に釣られて、心音がゆったりしたものになってくる。自分の頬を摘むのも、手の甲に歯を立てるのも、すべては無駄な努力だった。

目が覚めると、シンドバッドはジャーファルを抱き込めたまま幸せそうな顔で眠っていた。周りはすっかり明るくなっていて、焚き火は消えかかっていた。周りを見渡すが、その場にいるのはシンドバッドとジャーファル、それからマスルールだけだ。失敗した、と唇を噛む。自分から言い出したことだったから、余計に気が滅入る。けれど、誰も責めなかった。むしろシンドバッドの方が、ジャーファルの邪魔すんじゃねえ、と窘められていた。それからしばらくは大人しく見張りを辞退した。できないことと、できることの見極めは難しかったけれど、大事なことだと思った。

 

自分の身に起こった様々なことを思い返して、目を細める。どれもこれも大切な思い出だ。頭の中に記憶している。体には体験によって付いた傷もあった。その傷を指先でなぞる。幼い昔、シンドバッドを庇おうとして大怪我をした。大量の血液が流れ出し、肉が抉れ、末端から冷えてゆくのを感じた。死ぬのだと、このままシンドバッドを守って死ぬのだと思えば何も怖いものはなかった。生まれて初めて自分の命に価値を感じた。けれどシンドバッドは死ぬことを許さず、死の淵から無理矢理にジャーファルを引っ張り上げた。あれは魔法だったに違いない、とジャーファルは今でも時々考える。

「この馬鹿が」

聞いたことのない冷たい、怒りに満ちた声に布を引っ張り、頭からすっぽりと被る。すぐさま引き剥がされた。金色の瞳が怒りで燃えている。その色はひどく美しくて、縮こまりながらも見蕩れてしまった。

「死んだ方がマシだって目に合わせてやるからな」

シンドバッドは本気だった。

「…………どんな」

泣き出しそうな声で問う。殴られるのだろうか、それとも蹴られるのか。いや、どちらも死んだ方がマシだと思えるようなことではない。シンドバッドが与える痛みなら耐えられる。では、置いていかれるのだ、と目頭が熱くなった。

「まず、食事は俺の膝の上でさせる。お前ももう十五だからな。膝の上で飯を食うのは、人目を引いて、さぞ恥ずかしいだろう。頬にかけらが付いていたら、それも俺が取る。熱い食事は、俺が息を吹きかけ、冷ましてから食べさせてやろう。俺が食事を終え、酒を堪能している間も降りることは許さん。四六時中、俺の傍にいなければならん。勝手をすることも許さん。もちろん勝手に荷物の整理をするのも、洗濯をするのも駄目だ。寝る時も一緒だ。俺は寝ている間に服を脱ぐ癖があるらしいから、全裸の男に抱きつかれて眠るなど、俺だったら到底耐えられん。死んだ方がマシだ」

滔々と紡がれた言葉に、目を瞬かせる。

「それが、死んだ方がマシな目?」

「おお、そうだ。俺だったら泣いて許しを乞う」

からかわれていると気づいたのは、シンドバッドが、ジャーファルの気の抜けた顔を数分見つめて笑い出した後だった。置いていかれるのだとばかり思っていたから、どんな顔をしていいかわからなかった。怒ってみせるのが、一番良いと思ったけれど、安堵に満たされて、怒った振りさえできなかった。

シンドバッドの言葉は実行された。膝の上で食事を取らされるのは、確かに恥ずかしかった。一緒に眠るのは嫌ではなかった。浅い眠りではなく、深い眠りだったからか、怪我は案外早く治った。それから、勝手を許さなかったのは、安静にさせるためだったのだろうと今ではわかる。シンドバッドの与える罰は罰ではなかった。問題といえば、二十になったジャーファルが、凝りもせずシンドバッドを庇い、重傷を負った時のことだ。十五の時と同じ罰が与えられるとは思わなかった。あの時に関していえば、泣いて許しを乞うた。シンドバッドは許してくれなかった。

あんなことはもうご免だ、と思い返して笑う。胸の辺りが疼く。あたたかいものが満ちる。この記憶は誰も取り上げることはできない。

ひとつひとつの思い出を引きずりだし、確かめる。これが私だ、と自分の体を抱きしめて確認する。生きている。真の意味で、私はきちんと生きている。あの夢は私の記憶ではない、そう思われた。夢の中の私は、シンに出会わないままなのだろうか、そんなことを考えた。ぎゅ、と目を閉じると薄暗い闇が視界を覆った。その日はもう夢はなかった。

 

 

 

***005 名を呼ぶ男の話 / 2012.302

 

ジャーファルは十七になった。手足が伸び、力もついた。淡々と仕事をこなし、失敗もほとんどなくなり、殺しの技術は鮮やかになるばかり。最近では個室を与えられるようになった。個室には寝台が備えつけてあったが、幼い頃からの癖で、いまでも部屋の隅の床で寝ている。掛け布と敷布は増えた。

年上の同業者は何人か、いなくなっていた。腕を買われて別の場所へ行った者もあれば、失敗し命を落とした者もいる。逃げ出し、肉塊になって戻ってきた者もいた。昔、腕の折れたジャーファルが横たわっていた寝台を蹴飛ばした年上の少年も、もういなかった。街で出会った少女と恋に落ち、彼女のために足を洗おうと、組織を抜け出そうと逃げた。彼は「仲間だろう?」と聞いたことのない猫撫で声でジャーファルに話しかけた。ジャーファルが顔色ひとつ変えずに武器を握り込めると、「人殺し」と自身も人を殺してきたのに叫んだ。それから、頼むから、許してくれ、彼女だけでも、と懇願した。罵りも、懇願も、彼の言葉は全て耳を通り抜けた。昔のことは謝る、とも言った。苛立を解消するために理由もなく殴ったことも、寝台を蹴飛ばしたことも、食事をわざと引っくり返したことも、なにもかも。ジャーファルは瞬きひとつしただけだった。何故謝るのだろう、そう思った。それらは全て当たり前の日常であり、特別謝ってもらうことではない。暗殺の命を受け、人を殺すのも当たり前のことだ。

ただ、ふたりの死体を前に、何故、攻撃することを躊躇ったのだろう、としばらく考えていた。攻撃することを躊躇わなければ、逃げられたかもしれないのに、と。反撃されて傷付いた脇腹を見遣る。傷は浅かった。何故、と思った思考は、傷の手当をしなければならないという意識の前に消えた。少女の前で人を殺したくなかったのだと、血に塗れた自分の姿を見せたくなかったのだと、ジャーファルが理解するのはまだ先になる。

ジャーファルの日常はそうやって続いていった。誰かが死ねば新しい子供が連れて来られた。人を殺すための技術を仕込まれ、命令を受けて、殺しに行く。昔から変わらない。子供は使い捨てで、身寄りのない子供は、どの街にも存在していた。変わったことといえば、折檻で命を落とす子供が少なくなったことだ。折角技術を仕込んだ子供を、折檻で殺していては労力が無駄になる、と新しく来た上の人間が訴えたのだった。罰を与えるのならば私に任せてください、と熱っぽく口上を述べる男のせいで、折檻で死ぬことはなくなった。死ぬことは。

子供が泣き叫ぶ声はいつでも聞こえた。故意に難儀な訓練を言いつけ、それができなければ男の私室に連れて行かれるのだ。痛みと恐怖に支配された子供はやがて逆らうことができなくなる。従順になる。扱いやすくなる。些細な理由で男は子供を部屋と引きずり込んだ。少女が足の間から血を流し、泣きながら男の部屋から出て来たこともある。少女だけでなく、少年もいた。それすら日常だった。弱い者はいつだって、欲望や鬱憤の捌け口になった。その男がやってくる前から、行われてきたことだ。

一度だけ、ジャーファルも男の部屋に呼ばれたことがある。訓練の際に手が滑り、同業者に怪我を負わせてしまったのが原因だ。腕をわずかに掠っただけで、大した怪我でなかった。だが、そんなことは男には無関係だ。怪我をさせたところへ、熱した火掻き棒を押し当てられた。「二三日で治るよ」と楽しげに笑う男の目は、粘ついて、暗い欲望に満ちていた。されたことより、その男の目が嫌でたまらなかった。見られている、と思っただけで気持悪かった。

そんな日々の中、殺した人間の数は数えるのが億劫になるほどだった。手慣れた動作で首を掻き切り、血に塗れても顔色ひとつ変えない。時には、幼い子供を手に掛けることもあった。子供を盾に、両親の動きを封じ、殺した後に子供も殺した。

いくら罪を重ねても夢は優しくジャーファルに一時の安らぎをもたらし続けていた。不思議には思わなかった。不思議に思わないほどに、人を殺すことは罪ではなく、ただの日常でしかなかった。そうしなければ生きられないのならば、そうするより他にない。

もうひとりの自分は夢の男に寄り添い、幸せそうに日々を送っていた。もし毎日を男と過ごせたならばどんな気持になるのだろうと考えた。もうひとりの自分は笑っているばかりではなかった。眉間に皺を寄せ、口を開いて何事か言い募っていたのは一度や二度ではない。それでも、その黒い目はいつも男に対する親しみが溢れていた。

夢の男と、もうひとりの自分はただ寄り添い過ごすばかりではなく、時折抱き合い、縺れ合っていた。その行動がどんな物であるのか知らぬ訳ではなかったから、その時は静かに目を閉じた。男の金色の目を見ていられないのは寂しかったが、代わりにいっそ熱いとも感じさせる肌のぬくもりがあった。その夜ジャーファルは生まれて初めて抱きしめられる感触を知った。とても心地良かった。いつしか、夢の男の名前を知りたいという気持は薄れていた。名前を知らずとも、優しく頬を包み、誰も与えてくれない「あいしている」という言葉を聞かせてくれるだけでよかった。

 

 

ある満月のことだ。その日の標的はひとりの青年だった。邪魔だから殺してくれ、と頼まれ、ジャーファルが選ばれた。簡単な仕事の筈だった。それほど体躯も大きくなく、一般的な、特殊な能力もないただの青年だった。

帰路を急ぐ青年を薄暗い路地へと引きずり込み、壁に押しつける。武器を構え、首へ押し当てた。青年はゆっくりと口を開いた。もし大きな声を上げていたならば、口を塞ぎ、すぐさま首を掻き切っていたことだろう。

「頼むから、見逃してくれ」

真っすぐにジャーファルを見る瞳は青く澄み切っている。怯えや、嫌悪はなかった。真っすぐにジャーファルを見つめ、静かに懇願した。

「私を殺したと言って、帰ってくれたらいい。私はすぐにこの街を出て行く」

ジャーファルが了承すれば、青年はその言葉通りすぐさま街を出て行くだろう。だが、青年を逃がす理由がない。青年が街を出て行ったとしても、見逃したことが発覚すれば、裏切り者と見なされる。裏切り者はすぐさま処分される。それに、あの男は一度しか苛めなかったジャーファルが失敗することを、いつだって望んでいた。

しばらく見つめ合っていたが、見逃す意志がないことを感じ取った青年はゆっくりと息を吐き出した。諦めたらしかった。いままでの標的は誰も彼も抵抗し、その中で死んでいったから、めずらしいことだった。ジャーファルとて、通常ならばなんの感情もなく殺していただろうから、青年は運がよかったのかもしれない。

恋人に手紙を書かせてくれないかと頼まれたが、承諾する理由がなかったから、首を振るった。

「では、もし、私の恋人に出会ったなら、愛していると伝えてくれないか」

次にそんなことを頼んだ。私の恋人は聡明で優しく、けれどか弱い人だから、いきなり私がいなくなったら嘆き悲しんで人生を寂しいものしてしまうから、と。いつでもいい。気が向いたらでかまわない。あなたしか頼める人がいない。愛している、どうか幸せになってくれ、私はいつでもきみの傍にいて見守っている。

「あなたにも、愛している人がいるだろう?」

青年は続ける。

「……いない」

首を振るう。青年を押さえる手が緩む。

「では、愛していると言ってくれる人は」

いない、と言いかけ、声が途切れる。うまく思考を巡らせることができない。愛しているとささやく男は、確かにいた。満月の夜に、夢の中で。夢の男を振り払い、目の前の青年を睨みつけた。殺さねばならない。殺さねば、そう思うのに武器を握る手が緩む。何故か、力を込められない。この青年は誰かを愛している。夢の男と同じように、愛している、その言葉を発する。息が苦しくなった。眉を顰める。こんな時に体に不備が出るなど、有り得ない。

武器を握り込めようと持ち直す。自分の手が震えていることに気づく。何故、と困惑し、目の前の青年を見た。青年は不思議そうにジャーファルを見ている。似ても似つかない容貌が、夢の男に重なる。息ができない。

この青年を殺せば、青年の恋人は「愛している」とささやく人を失うのだ。もし、夢の男を失ってしまったら、自分はどうなるのだろう。あの優しいあたたかい言葉を与えてくれる人はいなくなる。足元が揺れている気がした。それでも短く息を吐き出し、青年を睨む。仕事をしなければ、折檻を受けるし、食事も減らされる。なにより居場所がなくなる。人を殺すしかできないのに、どこで生きてゆけというのだ。夢に出てくる男は、夢でしかない。実際にジャーファルの頬を包む手はない。日々の糧を与えてくれる訳でもない。たかが夢に振り回され、全てを失いたくはなかった。

同時にそこまでして生きてなんの意味があるのか、と問う声がある。人を殺す。冷えきった食事を胃の中へ流し込む。眠る。起きる。また人を殺す。眠る。時折、夢を見る。起きる。同じことの繰り返し。何故、と問う。何故、私に夢を見せるのか、と。夢さえ見なければ、こんなことは考えずに済んだ。いつものように殺し、仕事の報告をする。そうして、部屋の隅で横たわり、一時の安らかな眠りにつく。今宵は満月だ。丸く太った月が夜空に浮かび、淡く街を照らしている。ちいさい窓から差し込む月の光を見つめながら、夢で男に会うことを期待しながら目蓋を閉じる。夢の中、男がささやく。大きく優しい手のひらでジャーファルの頬を包み込み、金色の美しい瞳にジャーファルを映し、ジャーファルの名前を呼び「あいしているよ」とささやく。はっきりとわかっている訳ではない。どういうものが聞かれたら言葉に詰まる。けれど、知っている。愛している、その言葉の意味を、その言葉の響きで。

そこまで考え、なにもかもどうでもよくなった。生への執着が剥がれ落ちる。夢の男を殺すぐらいならば、自分を殺してしまおう。どうしたってあの優しいあたたかい響きを、失いたくなかった。夢とはいえ、あまりに長い間、優しく優しく繰り返されたものだから、胸のずっと奥に染みついて、ジャーファルが生きるために必要なものになってしまっていた。そのことに、今、気がついた。

武器を握り込めていた腕がぶらりと下がる。青年は困惑した様子でジャーファルを見ている。青年を拘束する腕を外し、背を向けて歩き出す。後ろから刺されても、誰かを呼ばれてもかまわなかった。

青年はジャーファルを殺そうともしなければ、助けを呼ぶこともなかった。街を出ても、誰も追ってはこなかった。一度だけ街を振り返る。いつも眠っていた部屋の隅を思い浮かべた。ジャーファルの居場所は、あそこだけだった。もういらない。

外れの森へと足を向けた。前に仕事で、闇に紛れ、街を出たばかりの商人をこの森で殺したことがあった。死体を引きずり、枯れた井戸に放り込んだ。記憶を頼りに井戸を目指す。井戸は変わらずあった。覗き込めば、暗い穴が広がるばかり。水は枯れ、誰も足を運ばず、手入れをする人もいないせいで荒れている。井戸の縁に腰掛け、武器を握り込めた。首を掻き切れば、そのまま井戸の中へと落ちていくことだろう。咽へ切っ先が押し当てられる。夜空を見上げれば、樹々の合間に丸い月を見つけた。目を細める。口角が持ち上がる。もう、夢は見ない。けれど、いい。あの男を殺すぐらいならば、自分を殺す。幼い昔いつかあの男に殺されるのだろうと思ったことを思い出した。怖くはなかった。ただ穏やかな気持ばかりが満ちている。目を閉じれば、薄暗い闇が視界を覆った。

「ジャーファル」

突然名を呼ばれ、息が止まった。名を呼ぶ声は、静かで優しい。そんな風に名前を呼ばれるのは、夢の中でだけだ。ならば、これは夢か。目蓋を開き、ゆっくりと振り返って声の持ち主を確かめる。苦笑した顔は、見慣れた顔だ。幼い頃から何度も何度も見てきた。

「お前は相変わらず手強い」

何故だか、得意げな響きがある。

「言ったろう」

シンドバッドは笑う。金色の瞳を愛おしげに緩め、口を開く。

「俺はいつでもお前の傍にいる、と」

 

 

 

***006 やさしい夜 / 2012.0303

 

目蓋を開くと、眦から涙が流れた。息苦しくて、何度も息を吸い、吐き出す。傍らに視線を動かせば、シンドバッドの顔があった。笑っている。

「どうだ、俺はいつも本当のことしか言わんだろう」

「……嘘、ばっかり」

もう酒はやめようと幾度聞かされたことか、言い返す。言葉を発するたびに涙が零れた。

「一体、どんな魔法を?」

あなたに出会わなかった私すら救うなんて、と笑えば、また涙が零れた。この涙は夢の私がいままで溜め込んでいたものだろうと思う。いくら泣いても止まらない。胸にあたたかさが満ちて、そこからこんこんと溢れては流れた。

「……私、は、どうなりましたか?」

微笑み、問いかける。

「今のお前と同じように泣いていた」

良かった、と呟けば、また涙が零れた。

「着ていた服を井戸の中へ放り込み、俺が用意していた衣服に着替え、俺と共に逃げたよ」

シンドバッドの手が、ジャーファルの手を取り、甲へ口付けた。

「お前と同じように細くて白い手だった。ひんやりとして、連れているのは魂の抜けたただの人形なのではないかと不安になって、何度も何度も振り返った。だが、いつ振り返っても、新しい涙を零しながらじっと俺だけを見つめていた」

手を掴み、先を走るシンドバッドの後頭部を思い描く。時折、シンドバッドが振り返り、見つめ合う。

「その夜のうちに街から遠く離れ、途中で野営をした。眠るのが怖いと、眠っている間に追っ手がやってきて、殺されるのではないかと不安がっていた。死ぬのは仕方ない、殺されるのは仕方ない、けれど巻き添えで俺まで殺されたら、と何度も繰り返した。大丈夫だと言い聞かせ、抱きしめて眠れば、泣きながら眠った。泣きすぎて目が真っ赤で、ひどい顔をしていた。最初は眠れなかったようだが、やがて穏やかな寝息が聞こえてきて、俺は一晩中その寝顔を見つめていた」

シンドバッドの指がジャーファルの涙を拭い取る。

「追っ手は来なかった」

「……本当に?」

「ああ、本当に」

金色の瞳は嘘を吐いているとは思えないほどに真摯だ。追っ手は来なかったのだろう。来たとしてもジャーファルが知らないのであれば、来なかったのと同じ。シンドバッドがそう言うのであれば、ジャーファルはその言葉を信じるだけだ。

「二週間もの間、先を急ぎ、ちいさな街に着いた。そこで宿屋を借りたんだが」

「部屋の隅で眠ろうとしたのでしょう?」

「その通りだ。敷布を持ち、部屋の隅で丸まって寝ようとする。寝台で寝ろと言っても、こっちが慣れてるといって聞かん。仕方なく、俺も床で寝てやった」

「慌てたでしょう?」

「慌てて、寝台で寝る、と頷いた。だが、落ち着きが悪いらしくていつまでも眠れないようだった。だから、一緒に寝た」

俺の服を掴んで離さないものだから、寝ている間に服を脱ぐことはできなかったぞ、とシンドバッドが笑い、ジャーファルも笑った。

「目を覚ますと、これが夢か現実かを確かめるように俺の顔を見て、それからゆっくりと俺の頬に触れた」

シンドバッドの頬に手のひらを沿わせる。すぐさまシンドバッドの大きな手が重ねられ、頬擦りされた。手のひらに伝わるあたたかさに、また涙が零れる。

「しばらくは怯えるか、ぼんやりとするか、俺の顔を見るか、そればかりだった。何度も何度も、これが夢でない証しを求めた。だから、俺はほとんどをお前の傍で過ごした。夢ではないという証しは俺の存在だったからな。やがて、夢ではないのだと理解したようだった」

金色の目に暗い色が差す。

「……次に罪の意識に苛まれるようになった」

シンドバッドは語る。ジャーファルは、たくさんのあなたを殺した、と言い出した。殺した人たちにも愛している人がいて、愛してくれる人がいて、それならば彼らはあなただ、と苦しげに呟いた。知らなかった。殺した誰かが、誰かにとって必要な存在であったなんて知らなかった。どうしてわからなかったのだろう。考えればすぐにわかることなのに。そう呟き、今度は鬱ぐようになった、と。

「傍にいては俺が汚れる、とまで言い出したよ」

苦笑を零すシンドバッドの頬を指先で撫でる。

「……あなたはなんとおっしゃったんですか」

その言葉を知っている癖に、聞きたくて問いかける。ジャーファルの手のひらに口づけを贈った後、シンドバッドは口を開いた。

「俺が許す。他の誰が許さなくとも、俺が許す。お前の罪を許すのならば俺も同罪だ」

そう言ってやり抱きしめたのだ、とささやく。優しい視線が注がれている。胸が詰まって、震えながら息を吐き出した。

語る声は止まらない。言葉はすぐに伝わらなかった。言われた最初は安堵したように頷くのに、夜が来る度にひっそりと泣いていた。俺に心配を掛けぬように、と掛け布に包まり、声を殺して泣いていた。一緒に寝ているのだから、すぐにわかるのに。

気持は痛いほどにわかった。殺してきた対象は、ただの標的であり、命じられれば殺すだけの存在だった。人を人として認識できるようになったのはシンドバッドに出会ってからだ。人を人として認識した途端、積み重ねてきた罪に気づき、その重さに押しつぶされる。その重みから救ってくれたのもシンドバッドだ。

「……私にとって、世界でただひとりの人間があなただった。それから、他の人も同じように人間であると知った」

ちいさく呟く。私は幼く、子供で、空っぽだった。変えたのはあなたです。私は死んで、生まれ変わった。世界に様々な色があることを知り、血と埃以外の匂いがあることを知り、冷たさ以外の体温を知った。すべてはあなたが、と続く言葉を指先が封じる。

「違うよ、ジャーファル。お前が変わりたいと願ったから変わり、お前が知りたいと思ったから知ったんだ。俺はただお前の手を離さなかっただけだ」

「夢の、私は?」

「ジャーファルは、どこでだってジャーファルだ。そのうちに、悔いるばかりではなくやれることはないかと考え始めた。殺した人間は取り戻せない。けれど、生きている人間にできることはある筈だ、と。まずは子供に優しくなり、次に弱い者の手助けをしようと努め始めた。初めて感謝された時は、どうすればいいのかわからず俺に尋ねにきた」

シンドバッドの肩が揺れる。その時の様子を思い出したのだろう。

「やがて国に辿り着き、これからはここがお前の国であり、帰る場所であり、居場所だ、と言えば、信じられないような顔をしてしばらく突っ立っていた。その後、泣きそうな顔をして、夢なんでしょう?と呟くものだから、思い切り頬を引っ張ってやった。強く抓ったせいで、頬が真っ赤になっていたが何も言わなかった。それどころか、もう一度、と頼んでくる。気が済むまで頬を抓ってやったもんだから、二三日赤くなっていた。数年経った後に、あそこまで抓ることはないでしょうに、と文句を言われたが、あれは多分自分でも抓っていたんだと思う。そのぐらい赤かった。それなのに、すべてを俺のせいにするんだからお前はひどい奴だ」

「あなたが抓りすぎるからでしょう?」

「なんて可愛くない奴だ!」

叫ぶなり、ジャーファルを抱き込め、体の下に押し込めた。抱きしめる腕の力が強くて頭がくらくらする。

「……それからな、満月の夜に、私とも、もうひとりの私としていたことをするのですか、と躊躇いがちに聞いてきたぞ」

「あなたはどうお答えになったのですか?」

「お前が嫌でなければ、と言った」

「ずるい聞き方を」

「お前は、嫌、じゃない、と言った」

「そう言うに決まっています」

「何故」

「嫌じゃないからです」

腕を伸ばし、シンドバッドの胴体に回す。抱き込められたまま頬を寄せる。

「…………シン」

声が震える。シンドバッドの隣りで笑うもうひとりの自分を脳裡に描く。

「どんな言葉で、気持を伝えればいいのかわからない」

体中に満ちる幸福を表す言葉はなにひとつ見つからなかった。どんな言葉も、この気持を表すには不足していた。

「あなたが与えてくれたものに応えたいのに、シンが与えてくれたものがあまりにも大きくて、それなのに私ができることは本当にちっぽけで、ちっとも足りない。もどかしい」

「ジャーファル」

腕が解け、シンドバッドが顔を覗き込む。金色の瞳に自分が映っていることを認めるとまた胸が苦しくなった。

「俺は、お前がそうやって、俺のためになにかできないかと考えてくれることがなによりも嬉しい。愛おしくてたまらない。……ジャーファル、望めるならばひとつだけ、ひとつだけ与えてくれたらそれでいい」

手を伸ばし、シンドバッドの頬を両手のひらで包み込む。金色の瞳は、不安げに揺れていた。

「……どんなことがあっても、傍にいてくれ」

「何度言えばわかるのです。私は、いつもあなたのお傍に」

あなたがいつも私の傍にいるように、祈りを込めて伝える。頬を撫で、髪を梳く。金色の瞳は満月のように美しい。瞳に映る自分はやはり穏やかに笑っていた。

「シン」

名前を呼ぶ声に感情を込める。

「あなたを心からお慕いしています」

あなたのためなら死んでもいい、その言葉は飲み込む。シンドバッドは笑う。笑いながら、ジャーファルの頬を撫でた。

「知っているよ、ジャーファル。お前が、俺を、愛していることぐらい」

こつり、と額と額が重なり合う。あたたかい気持はいつまでも胸の奥から涌き出して尽きることはないと思えた。

その夜は、とても美しい満月だった。やわらかい月の光りが射し込み、部屋を優しい色に染めあげた。ジャーファルは願う。どうかいつまでもこんな夜が続くように、と。ジャーファルは知っている。ジャーファルがシンドバッドの隣りでは安眠できるように、シンドバッドもジャーファルの隣りでは安らかな眠りに就けることを。