良い夜

その夜、シャルルカンは王宮の露台に幾つかの酒瓶を持ち込み、同僚を何人か誘って酒盛りをしていた。王の許可は得ている。酒を禁じられた王の羨望と憔悴の入り交じった目を思い出すと心が痛まないでもなかったが、二杯三杯と重ねるごとに忘れていった。なんなら雰囲気だけでも味わえばいいのにィ、とそんな残酷なことすら思った。

酒はいい。楽しくさせてくれるし、一緒に飲む相手がいれば極楽にも等しい。赤らんだ頬で卓を囲む面子を見遣る。可愛くねぇ女と、可愛くねぇ後輩と、真面目な同僚と、不真面目な少女と、それから気心のしれた文官や兵士も数人いた。一通り見回して、みながそれぞれ赤くなった頬で楽しげに談笑しているのを見ると、俺のおかげだぞ、と得意な気持になる。

ここに王サマがいればもっと楽しかったろうなァ、とシャルルカンはぼんやりと思う。王が酒に酔うことでの面倒は確かにあった。酒が好きだがそう強くない王は陽気に飲み、時に拗ね、充分に酒が回ったところでふらりとどこか居なくなる。翌朝、裸の女と寝台に転がっていたりして、政務官の胃を絞め上げるのだ。決してシャルルカンの胃ではない。だからこそ呑気にこっそり飲んじゃえばいいのにとも思える。確かに、同僚の可愛くねぇ女にも手を出しかけたと聞いた時には、胃の辺りに込み上げるものもあったが、女に対して無理強いをする人ではないし、女の方も王に対して特別な情もなさげだったし、とそれなりの着地点を得ている。そんなことをつらつら考えながら、更に酒を飲む。今晩は良い月夜でこれ以上ないほど楽しかった。

「シャルルカン」

落ち着いた声は浮かれ切った空気の中では場違いで、その癖、違和感なく耳に滑り込み、空気を壊すことはない。けれど、シャルルカンの心臓はひやりとした。忘れていた訳ではないが、自分も酒を禁じるように言われている。

「えっと、ジャーファルさんも飲みますか!?」

苦し紛れ口に出すが、頷くことはないと知っていた。眠る時と、数分の休息以外は動いてばかりのジャーファルが酒盛りの提案に乗ることはほとんどない。酔った場合には質の悪い絡まれ方をするのが常ではあるが、腹に背は代えられないし、そもそもジャーファルが頷くとは考えられなかった。だから、結構です、という言葉とそれに続く小言を神妙な心持で待つ。

「いただけますか」

「はい、ごめんなさい。あまりに良い月夜だったんでっ」

「確かに今晩は良い月夜ですね」

「でしょう!だから、月の良く見える露台で宴会したら最高だろうなァって……、え?」

「これ、借りていいですか」

と、シャルルカンの杯を指差す。余分の杯はなかった。あまりのことにぼんやりしたあと、ええどうぞ!と酒瓶を手に取り、なみなみと注ぐ。

「ありがとう。一杯でかまいませんから」

微笑んだ後、注がれた酒の表面を真剣な表情で見つめる。それから一気に飲み干す。杯を置いた時、思わず拍手をしたくなるくらい見事な飲みっぷりだった。

「折角なんで、もう一杯どうですか」

返事を待たずに酒を注ぐ。今日は本当に良い夜だ。いつもはどんなに誘っても頷かないジャーファルが酒の席にいる。もっと親しくなれた気がする。わくわくした子供のような気持でシャルルカンは笑い、ジャーファルは少しばかり困ったように笑っただけで注がれた酒も飲み干した。

「きみもまだ飲み足りないでしょうから返しますね。ありがとう」

「ええっ、もう行っちゃうんですかァ。折角なんですからもっと飲んでくださいよォ。みんなだってたまにはジャーファルさんと飲みたいですって!」

ねぇ?と近くのマスルールに同意を求めてみれば、なんとも素直に頷いた。

「ごめんね、また次の機会に誘ってください」

酔った様子は欠片もなく、いつもと同じ表情で言ったジャーファルはそのまま背を向けて歩いていく。シャルルカンは頭の中で次の機会を考えながら、返された杯に酒を注いだ。大きな月は優しく露台を照らしている。その夜は珍しく女と喧嘩もしなかったし、後輩も素直だった。いつもは真面目な同僚が冗談さえ口にした。本当に良い夜だった。

 

 

「……遅い」

遣る瀬なく寝台に寝転がっていた王は低く呟いた。後ろ手で寝室の扉を閉めたジャーファルはちいさく微笑む。

「シャルルカンたちは楽しそうでしたよ」

「そうか、それはなによりだ。英気をたっぷり養ったならば明日は思う存分働けるに違いないな!」

「部下に八つ当たりなどあなたらしくもない」

笑いながら、王の傍らに腰を掛けた。不貞腐れたまま寝転がる王の髪を撫でる。

「人生の糧ともいうべきものを奪われた気持などお前にはわからん」

「随分と大袈裟な。では、王の気持も分からぬ部下など帰った方がよいですね」

髪を撫でる手を掴み、引き寄せる。

「駄目だ。酒ばかりでなく、お前も取り上げるつもりか」

「そうですね。公務に支障をきたすならば」

「……あまりつれないことを言うと拗ねるぞ」

「もう拗ねているじゃないですか」

声を上げて笑いだしたジャーファルの唇に噛み付く。いきなりのことで息を呑んだが、抵抗はない。王の腕の中、おとなしく収まっている。王の舌が唇の隙間から忍び込む。

「……おい、人に酒を禁じておいて」

責める言葉が唇の表面を撫でる。

「私は誰からも酒を禁じられていません。だから、私は飲んでもよいのです」

私は、と強調して、王に口付ける。掻き消えそうな酒の匂いが鼻梁をくすぐった。口腔にはまだ酒の味が薄らと残っている。ジャーファルの言葉を頭の中で反芻した王の唇に困ったような笑みが浮かぶ。離れてゆく唇を追うようにして噛みつき、頭を引き寄せる。唇の合間から舌を滑り込ませ、口腔に残る酒の余韻を探った。思う存分、舌を巡らせるうちに酒の味は消えた。残るのはあたたかい唾液ばかり。気にせず舌の付け根の辺りまで舐めとれば、苦しかったのか、胸を押す手がある。

「足りないぞ」

「……それに、したって、加減というものがあるでしょう……っ」

はっ、はっ、と胸で息をするジャーファルの頬は赤い。目も潤んでいる。

「今頃酔いがまわってきたのか?」

「酔い、では、ありません」

「ではなんだ」

「……あなたが」

「俺が?」

言葉を待つが、濡れた唇を噛むばかりで何も答えない。たまにだが、王の中にはひとつの欲望が生まれる。腕の中にいるジャーファルが何を思っているのか、考えていることのすべてを言葉として知りたい、と。丸い頭の中でどんなことを考えているのか。

誰のことを考えているのかは分かる。分かるからこそ、言葉として知りたい。その頭を占める割合をジャーファル本人の言葉で聞きたい。だから、問いかけ、答えを待つ。

「あなたが、触れるから」

潤んだ目から涙が一筋、頬を流れた。白い頬を撫でるように落ちる涙を指先で掬い、目蓋に唇を押しつける。知りたいことはまだたくさんあった。けれど、王は問いかけなかった。知りたい答えは丸ごと腕の中にある。絶対的な信頼は王を安心させ、不安にもさせ、そして欲を煽る。それは初めて抱いた夜から変わらない。

 

 

満月は過ぎて、今宵の月は大きく欠けている。

その夜、王の寝室へ向かったジャーファルは寝台の横に備え付けてある机の上に酒瓶とひとつの杯を見つけ、眉を顰めた。寝台に腰を下ろしてジャーファルを待っていた王は喜色を浮かべている。

「……シン」

棘の含んだ声で名前を呼ばれ、ああ違うのだ、と口を開く。

「お前のために用意した」

果実酒でそんなに強い酒ではない、と杯に酒を注ぎ、差し出した。差し出された杯を手に、余計なことをした、と後悔しても遅い。手の中の杯にはとろりとした液体がなみなみと注がれ、飲まれるのを待っている。仕方ないと酒を飲み干し、空になった杯を王へ突き返す。

王は杯を受け取らずに手首を掴み、引き寄せ、ジャーファルを膝の上に坐らせた。酒で濡れた唇をぺろりと舐め、口腔へ舌を滑り込ませる。唇はすぐに離れ、手の中の杯をしっかりと握らせると、更に酒を注いできた。王の顔はこれ以上なく嬉しそうだ。ため息ひとつ、新たに注がれた酒に口を付ける。ひとくち飲んだところで、杯の上に手のひらが置かれた。唇を塞がれる。ひととおり口腔をまさぐった舌はやはりすぐに離れてゆき、さあもっと飲め、と王の目が言う。

三杯分ほど繰り返した辺りで、ジャーファルの目がとろんとしてきた。吐き出す息が熱っぽい。頬も赤い。

「……もう、だめです」

深く息を吐き出す。甘ったるい酒の匂いに王は目を細めた。

「たった三杯で酔うのか」

「だめ、だめです。あなたが体温を上げるものだから、お酒の回りがはやくって、これ以上は支障が」

「それはいけないな」

言いながら酒を注ぎ、口元へ杯を押しつける。王の勧めを断ることは難しい。こくりこくりとふたくちほど飲めば、次に王の唇が与えられる。ぽったりとした厚い唇はやわらかく、心地良い。もっと触れて欲しくなるから質が悪い。飲めばあの唇が与えられる。だめだ、とわずかに残った理性が言う。同時に、王が望むことで、望む通りにすれば唇が与えられ、利害が一致している、何を拒むことがあろう、と囁く声もある。

思案する間にも杯は重ねられ、結局、酒瓶のほとんどを飲み干すことになった。杯を取り上げられ、ようやく肩の力が抜ける。一滴の酒も残っていない杯を物欲しげに見つめた王だったが、視線をジャーファルに移動させた時には、欲しいものを与えられた子供の目をしていた。

指が頬を撫で、数十回にも及ぶ口付けで赤く熟れた唇を食まれる。王の指が服の中に潜り込むのを感じた。その夜のことでジャーファルが覚えているのは、そこまでだ。

 

いつも寝ている寝台とやわらかさが違う、と飛び起きたジャーファルは体の軋みに思わず呻いた。体のあちこちが痛む。何があったのだろうと自分の体に視線を落とし、絶句する。無数の鬱血、噛み跡、引っ掻き傷。頭を押さえ、昨晩のことを必死に思い出そうとするがまったく思い出せない。王の指が腰帯を解いたところは覚えている。押し倒されたのも、朧げであるが思い出した。その後のことがまったく分からない。

隣ですやすやと眠る王の頬を引っぱたき、叩き起こす。

「どういうことですか!」

声は擦れていて、迫力に欠けた。ううん、と唸りながらも目を開けた王は、ジャーファルを見てなんとも幸せそうに笑う。朝起きてお前が隣にいれば良いのになァ、と予てより言っていたことを思い出すが、今はどうでも良かった。

「説明してください。人が意識を失っている時にこんな!」

責める口調に眉を寄せながら、王は口を開く。眠たげだ。

「……なにをいう、お前が懇願したんじゃないか」

そんなはず、と言い募ろうとするジャーファルを制し、言葉を続ける。

「確か、最初は跡を残して欲しい、だった。ひとつ、ふたつでは足りないとも言った。それから、噛んで欲しい、傷が欲しい、あなたの所有物であると示されたい、とも。もっとひどいことをして欲しいと泣きながら言われた時は途方に暮れたぞ」

「嘘、ですよね……?」

「嘘じゃない。……覚えてないのか。呆れた奴だな」

深々とため息を吐き出して、じっとジャーファルの目を見つめる。金色の瞳は真摯で、嘘を吐いている様子は見受けられなかった。ジャーファルの頬から赤みが消える。

「す、すみません。私ったらそんな変なこと……!」

「いや、自制しなかった俺も悪い。今度は二杯程度にしておいた方が良さそうだな」

「……そうしてください」

項垂れるジャーファルの頭を軽く撫で、可愛かったよ、と囁く。おかげで首まで赤くなり、体温を戻すのに苦労した。そのうえ体の調子を整えるのにも手間取り、その日は会議に遅刻した。改めて、酒は良くない、とジャーファルは思った。

 

memo
2011.0706 / 良い夜
お酒を禁じられて元気ない王様を可哀想に思った結果。

2017.0326
加筆修正。お酒弱いように書き換え