若シンジャ
若シン×室長
「あんな男、捨ててしまえよ」
黄金に輝く瞳がまっすぐに私を捉えていた。その声音のどこにもふざけた色はなく、ただ真摯だった。だからこそ私の心臓は痛いくらい締めつけられ、うまく呼吸ができない。短く息を吐き、ようやくのこと言葉を絞り出した。
「私に、シンを捨てろと?」
「ああ。捨てて、俺の手を取ればいい」
あまりにも無邪気で残酷な言葉だ。
「あなたのジャーファルはどうするんです。捨てるんですか?あんなにもあなたを慕っているのに」
答えなどわかっているのに、愚かな私は苦し紛れ言葉を返す。
「捨てない。俺はジャーファルを手放さない。お前も、俺のジャーファルも」
ふたりとも大切するさ、と笑う顔のどこにも欺瞞も誤魔化しもなかった。喉が締めつけられ、目の前がぼやけてゆく。泣いてはいけない。耐えようとする私を尻目にあの頃の輝きを持ったシンは屈託もなく私の眦を撫でる。
「お前が泣くのは俺の腕の中だけだと思っていたが」
「……すこしは遠慮を知ってください」
「ジャーファルを相手に?それは俺じゃないな」
若いシンの唇から紡ぎ出される言葉のどれもが私の心臓を突き刺した。どうして。頭の中で言葉が溢れる。どうして、変わってしまったのか。私はその理由を分かっていて、知らないふりをしている。シンに問い詰められずにいる。
何を考えているんですか。
何を目指しているんですか。
あの頃は同じ方向を見ていた。シンの全てを理解できていた訳ではない。ただ全ての考えを理解しようと努めていて、シンもそのことを知っていた。そして、そのことを嬉しく思っていたことを私は感じることができた。今はもうなにもわからない。
何故、私ではない誰かと秘密の話をしているのか。あなたは私ではない誰かに「俺はずるくなったか」と問いかけるのだろうか。それとも、それすらもうどうでもいいことになってしまったのか。狡くて、優しくて、甘さが抜け切らない、王だったあなた。先に進むあなたの背に寂しいなんて、あの頃が恋しいなんて言えるわけもなく、私はあなたの背を見て、ついてゆくことしかできない。
言葉はいつも喉元までせり上がり、けれど口を開くことなかった。そんな日々の中、不意に現れたのは昔のシンだった。不思議なことに私の部屋からは出られないようで、夜も昼もずっと私の部屋にいる。窓辺に張りついて、「こんなすごい街なのに見られないのは残念だなあ」と心底残念そうに呟く姿の、シンらしさが懐かしかった。
生活に不自由のある部屋ではなかったけれど、暇を潰せるものはなく、金属器や武器を磨くか、本を読むか、昼寝をするばかりだった。私の感情がシンを呼んだのかもしれないと思うと申し訳なく、仕事の合間に時間を無理やり作り出しては相手をしている。相手をしていると言っても、最近街で流行している食べ物や遊び道具を持っていく程度のもので、ゆっくり話をできるのは、寝る前の幾許かの時間だけだった。
それでも聡さの変わらぬシンは細やかな私の言動で状況を理解したようだった。
「お前のシンドバッドとは、うまくいっているのか」
ことのきっかけはその言葉だった。
「……ええ、いまだ私はあなたの右腕ですよ」
「そうか。ならいいが。それにしては俺の話をしないな」
「例えば」
「今何をしているのかだとか、相変わらず女と酒に目がないのかとか。なにより昔の俺が現れたと聞けば、俺なら真っ先に会いに行く。こんなおもしろいことはない。……俺のことを話していないのだろう」
「今は、忙しいんです。その証拠に私もあまりあなたの相手をできていない」
「嘘が下手になった。俺なら、どんなに忙しかろうが会いに来る。だったろう?」
「…………ええ、そうですね。あなたの話もしていない。話しても、きっと会いには来ませんよ」
「ふぅん、何かに没頭しているんだな」
「そう思いますか」
「ああ。……おもしろくないな。そういう時には、大抵お前がいるはずだ。変わったな」
本人の口から聞く言葉としてはあまりに残酷だった。足元が崩れて、そのままどこまでも落ちていきそうだった。
「っと、大丈夫か」
倒れこみそうになる私を支えるシンは、いま自分の発した言葉の残酷さに気づいていない。
「すみません、最近、忙しくて」
「ほら、横になってすこし休め」
促されるまま寝台に横になる。傍らに腰を下ろしたシンは、私の顔を覗き込み、優しく額を撫でた。
「なあ、ジャーファル」
変わらぬ瞳が、変わらぬ声が、優しく優しく囁く。
「あんな男、捨ててしまえよ」
そのあと、どんな会話をしたのか、あまり覚えていない。
「考えてくれたか」
目を覚ますと目の前にシンがいて、笑っていた。一体いつぶりの光景だろう。
「多分、俺はもうすぐ帰る。そんな気がするんだ。俺のジャーファルも寂しがっているだろうしな」
ジャーファルのこと話すシンの顔は優しい。今のシンは、こういう風に私のことを話してくれるだろうか。目頭が熱くなり、ひとりでに涙がこぼれた。嫌だなあ、シンの前で泣くなんて、と思った瞬間、シンの指で拭い去られた。
「疲れているんだよ、きっと。俺ならお前にそんな思いをさせずにいられる」
「……でもいつか、あなたも変わる。私のシンがそうであるように」
「ああ。そうしていつかまた昔の俺が現れてお前を連れ出そうとする。それじゃあ駄目か」
「それが私にとって幸福だと?」
「あくまでもひとつの形としてだ。俺にとってもそうだ。……お前がそんな顔をしているのは嫌なんだよ」
私は頭の中でぼんやりと思う。あまりシンらしくないな、と。
「悪くないだろう?いつまでもお前を右腕として大切にする俺といられるのは」
「……悪くありません。でも、良くもない」
言葉ははっきりと飛び出した。
「私、目の前のあなたに縋りたい、縋りついて、あの頃のようにあなたの為に働きたい。笑い合いたい。秘密の話を誰よりも真っ先に私にしてもらいたい。考えていることを話してもらいたい。でも、あなたは、私のシンじゃない。私のシンはひとりなんです。捨てることはできない。捨てることができるのなら、もうとっくの昔に捨てているんですよ。それに、シンを捨てろだなんて、シンに私が必要ないと言っているようなものです。だから、せめて私からは捨ててなんかやらない」
胸の奥がじんじんと痺れる。不思議と笑顔になれた。私の感情によって呼び出されたのかもしれないなんて思っていたけれど、本当は違う。おそらく無意識なのかもしれない。目の前で泣きそうな顔をしているシンは、シンが呼んだ。
「だから、あなたは、あなたに尽くしているジャーファルを大切にしてあげてください。私はそのことを忘れない」
「寂しい思いをさせても?」
「ええ。どんなに身を切られるような寂しさに苛まれても、きっと私は思い出せる。私には誇りがある。忘れてしまうこともあるけれど、私はずっとシンを見ていた。シンの為に尽くしてきた。それだけは誰にも負けない。例え、シンのお役に立てずとも」
「……お前は強いなあ」
「そうでもありませんよ。もっと長くあなたと一緒にいたら、きっと縋りついてしまうから。……ありがとう、シン。大好き」
手を伸ばし、若いシンを抱きしめる。大好きだなんて子供っぽいこと、言える機会などもうない。頰が熱い。シンの腕が私を掬い上げ、強く抱きしめる。ああ暖かい。幸せだ。これだけで涙が出そうになるくらい幸せだ。シンの行く先に幸福がありますように、私はただそう祈った。それからどうすればシンのためになれるかを考えた。