よるのはなし

「……シン」

凛と響いた声は夜の部屋に反響し、一瞬で酔いを吹き飛ばした。寝台に押し倒されたジャーファルは呆れたような目をして、じっと見つめ返すばかりだ。焦りや怯えがないことに安堵を覚え、それから少しばかり切なく思う。薄い唇が紡ぐのは他愛のない小言ばかりで、聞き慣れたものだった。お酒が過ぎます、だからあれほど控えるように言ったのに、明日は飲んじゃだめですからね、いつもの言葉が淡々と続けられる。

「私だったからよかったものを。もし、女官やヤムライハなら面倒なことになっていましたよ」

深く息を吐き出し、眉を寄せる。ああそうだな、と言葉を返しながら、なにが良いものかと胸の中で反論する。他の誰でもいい。男だろうが、女だろうが、お前でなければ面倒なことなど一切ないのだ。酔いのせいで伸ばし引き倒した腕がいまだに動かぬ理由を、お前は少しでも考えるだろうか。逃がさぬようにと体の脇に置かれた腕が、どんな意志を持って触れるのか、一瞬でも思い至ることがあるのだろうか。考え、すぐさま振り払う。いらぬ思考は悪い結果を導き出す。

「大丈夫ですか」

何も言い返さないものだから、不安に思ったのだろう。白い手が伸びる。袖が捲れ、手首に赤い紐が覗く。白い肌に巻き付いてる赤い色は目の毒にしかならない。引き剥がすように視線を顔へと向ける。指が額に触れた。ジャーファルの手はいつも冷たい。だが、今日はそれほど冷たくはなかった。ひやりとした感触がないのは残念ではあったが、触れる指先はいつものように優しく、いつものように理性を揺るがせる。

「具合は?」

「……大丈夫だ」

咽を押し開き呟けば、安堵したように表情が和らぐ。無茶な飲み方だけはしないでくださいね、と優しく囁かれる言葉にどれほどの愛情が込められているものか。求めるものと違うとはいえ、与えられる感情の全てが愛おしい。そう思う度に、自分が欲しいものが何であるのか突きつけられる。このまま体を貪ることをは可能だろう。碌な抵抗もせず、怯えながらも、王の望むことだと堪えるに違いない。これはそういう男だ。

なんという手酷い裏切りだろう。信頼と敬愛を盾にした醜い行為だ。頭の片隅に惑わす声が響かぬ訳ではない。だが、信頼を裏切られ、涙を流し、それでも仕えようとするだろうことを思えば、心が切り裂かれるように痛む。そんなことは欠片たりとも望むことではない。欲しいものはただひとつ、この体に詰め込まれた信頼と愛情だ。既に与えられているものだ。いま以上に何を望む。 それでも、もっと欲しいと欲が疼く。信頼と愛情、それから髪の一筋から足の爪の先まで、すべて。望めばいとも簡単に手に入るもので、だからこそ自ら望むことは出来ないそれら。抱き寄せる腕など存在してはいないのだ、と何度言い聞かせただろう。

「シン」

不安が滲んだ声に、静かに息を吐き出した後、笑ってみせた。吐き出した息には酒の匂いが混じり、思わず眉を寄せる。これは本当に酒を禁じた方がよさそうだ。

「少しばかり飲み過ぎた」

眉が顰められ、責めるような眼差しが向けられる。その視線から逃げるように寝台に身を横たえた。大きな動作で横になれば、潰されないように慌てて体を避ける。もう、と眉根に皺を寄せて呟いた。

「お水は?」

「いや、いい。もう寝よう」

「着替えは」

「どうせ寝ている間に脱ぐ」

「……仕方のない人ですね」

ちいさく笑う声に続いて、おやすみなさい、と言葉が落ちる。それから、腰を上げる気配がした。思わず引き止めそうになり、唇を噛み締める。抱き寄せる腕などない、戒めるように拳を握り込めた。何事もなかったかのようにジャーファルは部屋から出て行き、扉の締まる音がかすかに耳に届いた。言いようのない安堵感に肩の力が抜ける。同時に、あれにはやはり忠誠心以上の情はない、と思えば笑いだしたくもあった。何を切なく思う必要がある。何があっても変わらぬものが確かにあるのだから、それで満足するべきだ。だが、幾度となく繰り返しても泣きたくなるような切なさは消え去らなかった。 

 

 

 

音を立てぬように扉を閉め、静かに息を吐き出す。扉に背を預け、天を仰ぐ。立っていられず、その場にへたり込んだ。

「ああ……」

呻くように声が零れる。良かった、頬に触れずに。良かった、おかしなことを口走らずに。ずっと握り込めていた左手を開けば、爪の跡がくっきりと浮かび、少しばかり血も滲んでいた。傷を指でなぞり、包帯を巻いておかなくては、と思う。その後すぐに、大した傷ではないのだからそのままにしておいた方が良いのかもしれない、と考え直す。包帯など巻いては余計に目立つだろうし。

いつから、この厄介な気持は生まれたのだろう。ただ傍にいるだけでいいと願う気持に変わりはない筈なのに、あと少し、あと少しでいいから近づきたいと思うようになった。あの頬に触れたい、あの手に触れたい、唇に、髪に、胸に、全てに。そうして同じように触れて欲しいなどと。

手のひらで顔を覆う。立場以上のものを望むなど間違っている。だから、いらない。こんな感情はいらない。何度も何度も捨てようとして、その度に同じ場所に帰る。このままではいつか傍にすらいられなくなる。そう分かっていても、王を愛おしいと、恋しいと思う気持は消えることなく、胸の中にあった。 

 

memo
2011.0413/ 夜の話
そのうち逃げ出しそうなジャーファルさん