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▼かみさまはもういない
(冒頭~4ページ)
シンドリア国王シンドバッド王が病に臥せったのは月のうつくしい夜でした。
翌日には政務官が「王は病に倒れ、しばらく公務から退かれる」と淡々と告げ、知らせは瞬く間に国中に広まり、不安が覆いました。
けれども国民たちは持ち前の明るさで、「きっと働きすぎて疲れてしまったに違いないね」だとか「お忍びで余所の国へ行っているのかもしれないよ」だとか「そのうち病の方が逃げていくさ、だって我らが王は七海の覇王だ」と、そんなことを言い合ってお互いを慰め、普段と変わらぬ日常を過ごそうと務めました。自分たちの生活が続けば続くだけ国のためになると知っていましたから。
王宮に勤める役人たちもそうです。文官も武官も侍女も魔導士も学者も国軍兵士も教師も門番も料理人も、王宮で働く者は与えられた役割を誠実に勤め上げることが大事であり、王のためになると知っていました。
彼らはみな眠りの前に祈りました。「はやく王が顔を見せてくださいますように」「はやく病がどこかへ行ってしまいますように」「はやく王が……」祈りの声は毎夜途切れることはありません。
真実を知るのは王に近しい者だけです。
王は豪奢な寝台に横たわり、天蓋の装飾を眺めるばかりの日々。四肢は重く鉛のようです。水を飲もうと傍らの台へ右腕を動かすだけでひどく消耗しました。泥の中でもがくようにして重い右腕を伸ばしたところで、指先に力を込められず、杯は弾かれて床へと落ちました。
その時の王の絶望を知る者はただひとり、彼の政務官だけです。静かに近づいてきた彼は、転がっていた杯を拾い上げ、水で満たし、王へと渡しました。杯を握り込めた王の手へ手を重ね、口元へと移動させます。
冷たい水が唇を、喉を潤すと、絶望はやわらぎました。けれどさみしい気持が胸へこびりつき、王の口を開かせます。殺してくれ、と。
頑強だった体はどこにもなく、心は腐ってゆくばかり。うつくしい思い出ばかりを残して、この世からいなくなってしまうべきだと王は信じているのです。
「あなたはいま心が弱っているだけ。だからくだらない言葉を繰り返すのです。私はあなたが案外打たれ弱いって知っていますから、そんな戯言ちっとも聞き入れやしませんよ」
まるで駄々を捏ねる子供へと言い聞かせる母親です。呆れ混じりの言葉は王の心を慰めます。
いまは弱っているだけであり、病が消え失せればいずれは全身に力が漲り、以前のように働き、遊び、酒を飲んではこの政務官に叱られるのです。
懐かしい光景を脳裏に浮かべ、ちいさく喉を唸らせると、優しい微笑みがありました。
「すこし眠りましょう」
頷くと、手が伸びてきて髪を撫でました。子供ではないんだぞ、と笑って返してやりたいのに、目蓋は重く閉じていきます。
閉じた目蓋を塞ぐのは彼のあたたかい手のひら。子守唄代わりに呟かれる以前と変わらぬ国の様子は安らかな眠りへ。ここには安らぎがあり、優しさがあり、あたたかさが身を包むのです。
それでも王は考えます。微睡みの中、考えるのです。
ーー俺より先にこの男は死んでしまうに違いない。
王が倒れて以来、全ての世話は彼がしていました。動けぬ体を清潔に保ち、食事をさせ、水を飲ませ、絶望にぐずる時には優しく慰め、時には叱咤し、安らかな眠りのために傍に仕えているのです。
彼の白い手が濡らした布で顔を拭き、首を拭き、胸元、腹、腕、背中、足を拭くのを見ているとその思いは強くなりました。
彼は指の間、足指の間も丁寧に丁寧に清めるのです。それが己に与えられた唯一の仕事であるかのように。
王が国務にたずさわれない今、国の運命は彼が握っていました。王の世話をし、王の仕事もし、ろくに休んではいない。いずれ過労で倒れ、儚くなってしまうに違いない。ひどく恐ろしいことでした。
彼がいなくなったとしても侍女が王の世話をしてくれるでしょう。けれど、王は侍女相手に駄々を捏ねることはできないし、ぐずぐずと弱音を零すことはできないのです。ひどく恐ろしいことです。彼が死んでしまえば己もきっとーー……
と、そこまで筆を走らせてシンドバッドは手を止めた。手放した筆が机の上をころころと転がり、点々と墨を残す。
退屈に任せて筆を走らせるのも飽きた。取り寄せられた巻物を読むのも飽きた。仕事のある日々をどれだけ愛しく思おうとも、許しが得られない。
盛大なため息を吐き出し、シンドバッドは回想する。
「朝食をどうぞ」
体を揺すられて目覚めれば、ジャーファルが顔を覗き込んでいた。寝ぼけ眼で起き上がり、欠伸を零し、寝台から抜け出る。
促されるまま朝食の並んだ席に腰掛けた。瑞々しい葡萄の房から一粒千切り、口へと放り込む。
「おはよう、ジャーファル。侍女はどうした?」
「おはようございます、シン。私では不満ですか」
「不満ではないが、おかしいだろう。お前は政務官で、食事の世話は政務官の仕事ではない」
「お嫌ですか」
「嫌ではない」
「ではかまいませんね」
笑顔に話を打ち切られた。
またひとつ葡萄を放り込んで、噛み締めて飲み込む。
ジャーファルは傍らに立っていて杯に水を注いでいる。銀色の皿に乗せられたパンを掴み、食べやすいように千切り、口へと押し込む。飲み込んだら、杯を持ち上げて喉を潤した。
シンドバッドは食事の動作を繰り返しながら頭では別のことを考えていた。ちらり、と盗み見るジャーファルの表情はいつもと変わらない。王ばかりではなく文官たちも見ている顔だ。
昨晩シンドバッドにだけ見せていた顔は違う。思い出すと口元が弛んだ。
「……乾いたんだ。乾いて、乾いて、どうにかなってしまいそうだ」
そう囁いて伸ばした腕は拒絶されることなく受け入れられ、拒絶されないと知っているのに安堵した。
抱き込めた体はしなやかで鍛えられている。皮膚は手触りがよく、いくらでも撫でていられた。もどかしく腰紐を解き、衣服を剥ぐ。
名を呼び、髪を梳くと薄く唇を開いた。喰らいつき、呼吸を奪う。奥深くへ舌を伸ばし、口腔を探ると舌で押し返してきた。そのまま絡ませ合い、互いに貪り合えば否応なしに体温が上がり、情欲が深まる。
「は……っ」
思う存分、舌と唇を貪った後に開放すれば、甘い吐息が零れた。並んだ歯の合間から覗く舌が引きつっているのが見えた。ちらちらと覗く赤い舌は妙に生々しい。
はあ、と落とす息は艶を帯び、口づけの余韻を示す。いくつか息を吐き出した後、伏せていた目線を上げて、おそるおそるシンドバッドを見た。
何度も何度も体を重ねてきたというのに、いつまでたっても初々しさが残るのが不思議でたまらなかった。いつ抱いても一種の躊躇いと頑さを見せるくせに、慣れた体は実に素直に快楽を示す。
だからシンドバッドは初めて抱いた夜のことと、今まで重ねてきた夜のことを同時に思い出した。
初めて抱いた夜のジャーファルは緊張でガチガチで、指一本触れただけで「ひゃっ」と短く叫んで身を強張らせた。受け入れた後は、「もう、死んでしまいそうです」と消え入るような声で呟いた。死んでは困る、まだ続きがあるんだ、と言われた時の顔は忘れられない。
今はすっかり慣れた体はシンドバッドに快楽を与える。ぴったりと寄り添う体は、そうあるために作られたかのようだった。
ジャーファルとの性交は満たされる。満たされるから、手を伸ばし、求めてしまう。
求められるまま抱かれるジャーファルに不安を覚えたことはある。色っぽい嬌声を上げはするが、あくまでも反射的なものであり、生理現象であり、感情から発露されたものか判断できなかった。
王が求めているから、身を任せているのではないか。
馬鹿らしい不安だった。初めは不慣れでぎこちなかったが、慣れていく度にジャーファルは応えた。
そうされるのが好きです、もっとして欲しい、気持良いです、震える声で必死に訴えたのは、シンドバッドの不安を感じ取っていたからだ。
昨日も最奥を抉られて、艶を帯びた声で鳴いた。
「うあ……っ、あっーー、きもち、い、……っ」
普段の優秀な政務官の姿はどこにもない。だらしなく涎を垂らし、目の焦点は虚ろ。四つん這いで尻を掴まれながら、シンドバッドを深く受け入れた。与えられる快感を逃すまいと締めつけて、もっととねだった。
脳裏に色鮮やかによみがえるジャーファルの痴態に耽溺していたシンドバッドの耳に声が飛び込んで来た。
「あなたはもうこの部屋から出られません」
昨晩の余韻に浸っていたシンドバッドは、最初ジャーファルの言葉を聞き逃した。
「は?」
ジャーファルは再度同じことを繰り返す。
「ですから、あなたはもうこの部屋から出られません」
穏やかな顔で告げたジャーファルは、シンドバッドの困惑など気にも留めず言葉を続けた。
「この部屋は魔法道具で封じられていますから、特別な鍵がなければ出入りできません。鍵は私が持っています。魔力も使えないようにしてありますから金属器は使えませんよ。……とはいえ、この仕掛けはまだ未完成で、あなたならば力技で壊せるでしょう。ですから、更に仕掛けをもうひとつ。……対象者がこの部屋から無理矢理脱出した場合、仕掛けた者の命が奪われます。つまりは私です。自由を選ぶか、私を選ぶか、といったところでしょうか」
「……何を言っているんだ、お前」
「納得するまで何度でも説明致します。それから、仕事はさせません。私にとって不都合なので。一日中閉じ込められ過ごすのですから、暇つぶしは用意しましょう。なんでも遠慮なく申し付けてください。質問は?」
「いや、だから何を言っているんだと……」
「……ああ、そうだ」
なにかに気づいた表情に安堵したシンドバッドの気持はすぐに挫かれる。
「これからのシンはシンドリア国王でもなく、金属器も使えないただのシンなんだから畏まらなくていいのか」
ふふっ、と満足げな笑みを向けられてシンドバッドに何が言えようか。
***
(P25~)
「色々と考えたのですが、結局顔を出している時点で変装は無意味なんですよね。顔を隠すと不自然ですし。と、なればやはりここは魔法の出番かと」
「金属器を使うのか?」
「実は、その、変わった魔法薬があるんですよね。もちろん嫌でしたら、金属器でも」
変わった魔法薬と聞いてシンドバッドが興味を持たない訳がない。目を輝かせて、話の続きを催促する。
「一度試してみたところ、人体に害はありませんでしたし、成功はしました。ただ……」
「ただ?」
「シンに渡してよいものかどうか」
「安心しろ、ジャーファル! 余計なことはしない」
変装のための魔法薬ならば姿形が変わるのだろう。魔法での変装は、あくまでも周りの目にそう見えるというだけだが、魔法薬となれば実際に姿形が変わるに違いない。
まったくの別人になるのか、はたまた若返るのか、老いるのか、それとも性別が変わるのか。なんにせよ楽しみだ。
「やっぱりやめます。あなたに渡したら大変なことになる」
「意地の悪いことを言うなよ。今、持っているのだろう?」
ジャーファルの体を抱き込めて、胸元に手を突っ込み、袖口に手を突っ込み、ついでに尻を撫でて、体中を探る。やめろ、離せ、と暴れる体をまさぐるのは楽しい。
魔法薬を探り当てた時にはジャーファルの着衣は乱れに乱れ、怒りと、怒りではない別の要因で顔は真っ赤だ。
「説明してくれないなら実際に飲んでみるまでだ!」
高らかに宣言して、一気に魔法薬を飲み干す。なかなかにまずい。飲み物に混ぜてこっそり飲ませることはできないな、と思いながら、効果を待つ。仕方なしにジャーファルが口を開いた。
「……年齢を下げるんです。子供の姿になれば油断するし、何かあった時に言い訳もしやすい。諜報活動に役立つかと」
「ほお、なるほど! ……お前、一体いつ試したんだ」
「あなたが国を留守にしている間に」
「どうしてそういうおもしろいことを俺のいない間にするんだ!」
「……私が子供になっていたら、シンはどうしていましたか」
「きっと可愛がっていたさ。膝の上に乗せて、美味しい菓子をあーんと食わせてやったり、子供用の衣服を買ってやったりと」
「それだけですか」
じっとりと見つめてくる目には疑心が満ちている。
「……いやらしいこともしたかもしれん」
もちろん無理強いはしないし、合意は得るし、無理そうなら挿入はしない。年齢によるが。
もし初めて手を出した頃のジャーファルの姿であれば懐かしさと愛らしさに負けて確実に手を伸ばしているだろう。そもそもどの頃のジャーファルであっても寝たいと思ってしまうのは仕方のないことなのだ。
話しているうちに視点が低くなってきた。身につけていた衣服が緩んで、肩から落ちる。気がつけば、立っているジャーファルを見上げる形になった。
「おっ、十五くらいか? ジャーファルと出会った頃だな。懐かしかろう?」
「ええ、まあ、そうですね、懐かしい。……あの頃はあんなに大きく見えていたのに、あなたも子供だったんですね」
懐かしそうに笑む唇の形は優しい。
「着替えです。体に合うといいんですが」
手助けしてもらい、用意してくれた衣服へ着替える。すこし大きかったが、着心地は悪くはない。
「ジャーファルは?」
「私も着替えますよ。……シンだとバレる可能性はなくなりましたが、隠し子だと思われたらどうしましょうか……」
「噂だけならすぐに消えるだろう。まあ、たまに隠し子の噂は聞くしな……」
「今更でしたね。すぐに着替えてくるので待っていてください。私が着替える間、体に慣れるために部屋の中を歩くといいですよ」
確かに数分前までは大人であった子供の体は動かしにくかった。頭の認識と実際の体の動きが一致しないのだ。部屋の中を歩き回るだけで疲れた。それでも結局は自分の体だ。ジャーファルが戻ってくる頃にはすっかり馴染んだ。
「……」
「なんですか」
「変装、ってそれか?」
「そうですよ。問題でも」
「いや、ない。ないが、意外だ」
「意外だからこそ、です。八人将のひとりが女装して街を歩いているなんて誰も思いません。似ていると思っても、他人のそら似か、はたまた親戚と思うくらいでしょう」
ジャーファルの身を包むのはゆったりとした女物の衣服だ。余裕のある衣服は体の輪郭を隠している。頭に被せた布は肩周りを隠し、付け毛が胸元へと垂れ落ちている。どこからどう見ても女性にしか見えない。
「似合っているよ、ジャーファル」
「……ちっとも嬉しくない」
心から不快だと示すように鼻の頭に皺を寄せる表情がおかしくて、思わず笑ってしまう。
「じゃあ行こうか」
そう言ってジャーファルの手を掴む。
「その前にこれを……」
差し出されたのは銀色の華奢な装飾品だ。ふたつの輪っかは腕輪のようだ。腕輪と腕輪を繋ぐ鎖は細くてしゃらしゃらと心地良い音を立てた。
「冒険心に溢れたあなたが逃げたりしないよう、手錠です。子供の姿で問題を起こされても困りますし」
「手錠にしては頼りないな」
「この鎖を引き千切って逃げたら、私の命もこの世から断ち切られます」
にっこりと笑うジャーファルにため息が出た。
「そうやって軽々しく己の命を掛けるもんじゃない。……効果は覿面だが」
「手っ取り早くて効果的なものは使わなければ損ですから」
笑うジャーファルが互いの手首に手錠をかけるのを呆れながら眺めた。シンドバッドの左手首とジャーファルの右手首を繋ぐ銀色の鎖は頼りない。軽く力を込めて引っ張っただけで千切れてしまいそうな気がする。だから、やっぱりシンドバッドはジャーファルの手を取って、握り込めた。