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▼ きみのこと / マスジャ

恋愛対象として意識されていないと悶々とするマスルールと、マスルールへの気持がわかりにくいジャーファルさんの話。過去捏造有り。シャルとマスルールは相変わらず。サンプルは冒頭です。

 

 

 この人は、俺にも欲望があるということを理解していない。

 マスルールは最近そう思う。隣を歩くジャーファルは前を向いたまま、食べたいものある? と問いかけ、マスルールが今何を考えているのか、思い至ることはないだろう。

「……羊っすかね」

 良いお肉が入ってるといいね、と呑気に笑う。午前の仕事が終わり、食堂へと向かっていた時に、ジャーファルが駆け寄ってきたのだった。

「一緒にご飯食べようと思って」

 にこにこと笑いながらマスルールを見上げ、返事を待たずに、同じ方向つまりは食堂へと歩き出す。いつの間にか、隣ではなく前を歩いていた。マスルールがわずかに歩幅を緩め、後ろを歩くようにしたのだった。それは癖だ。

 無防備なジャーファルの背中を見つめながら、マスルールは思う。背後から抱きすくめられる可能性を一瞬でも考えるのだろうか、と。抱きすくめられ、白く細い首に齧りつかれることを怖いとは思わないのか。

 つい昨晩の出来事だ。

「相変わらずなんにもないねえ」

 マスルールの部屋にやってきたジャーファルは、何もない室内をぐるりと見回し、寝台に腰を下ろした。一脚の椅子すらない部屋は静かで、洋燈がちらちらと燃えるばかりだ。あたたかい光がジャーファルの白い頬を照らす。

「きみも坐りませんか」

「いいっすけど……」

「けど?」

 首を傾げるジャーファルの視線から逃げるように顔を反らし、唇を閉じる。坐るとしたら、ジャーファルの隣になるのだろう。寝台の上に、ふたりして、坐ることになる。

 壁に預けていた大きな体をぎこちなく引き剥がし、緊張を悟られないように歩く。寝台まで移動すると、ジャーファルの視線とかち合った。マスルールを見上げ、いつもの笑みを浮かべている。両手のひらで包み込めてしまう頬の曲線に目を細め、無理矢理に視線をずらすと体を反転させ、寝台に腰掛けた。重みで、ぎし、と軋む。

「ちゃんと寝台で寝てる?」

「……まあ」

「嘘。今朝は、髪に草がついていたじゃないですか」

 その草を取り払ってくれたのはジャーファルだったと思い出し、口を噤む。

「部屋で眠るのが嫌なの? それとも寝台が嫌なの」

「……あんま、落ち着かないんで」

 やわらかい寝台よりは、切り出された冷たい石の上や、どっしりした木の幹、程よいやわらかさの草の上で眠る方が性に合っていたし、心地良かった。それに風が髪や頬を撫でる感触に眠気が誘われ、これ以上なく安眠できた。

「宿屋ではちゃんと寝台で寝ているよね?」

「本当は、旅先でも外で寝たいっす」

「……そうなの?」

「はい」

 そうなんだ、と可笑しそうに口元を押さえたジャーファルの目は優しい。

「でも、まあ、外で寝ても落ち着かないと思うんで」

 野外で安眠できるのは、ここがシンドリアだからだ。よその国では、人の気配や、物音が気になって碌に眠れるものではないだろう。

「この国は、シンの国だものね」

 どこか誇らしげに呟いて、それから、

「じゃあ、今度私も外で寝てみようかな。きみと一緒に」

 言い出した。しばらく考え込み、額を掻く。

「夜は、すこし寒いんで」

「くっついて眠れば、きっとあたたかいよ」

 言い切ったジャーファルは楽しげに、一番お気に入りの場所はどこなんですか、と訊ねてくる。

 マスルールが好む寝床は、体が収まる程度の場所であることが多い。例えば、屋根の上。安定性もない、広さもない場所にふたり並んで眠るのは難しい。いや、ジャーファルの体ならば腕に抱いて眠れば落ちることなく安全だろうか。いつの間にか真剣に考え始めた自分に気づき、眉を顰める。 ジャーファルと隙間なく体をくっつけて眠るなどできるはずがない。眠れる訳がない。腰を抱き、引き寄せ、体温が寄り添う。そんな状況で。

「今日はここで寝るの?」

 替えられたばかりの清潔な敷布を軽く手で叩く。今晩、どこで寝るのかは考えていない。

「一緒に寝ようか」

「………………」

 にこにこと変わらない笑顔が告げる。その顔に恥じらいや、性的な色は見つけられない。ため息を噛み殺し、じっとジャーファルの目を見る。何を考えているのか知りたかった。

「なんて、子供じゃないんだから嫌だよねえ」

 数分見つめ合った後に、あっさりと提案を撤回したジャーファルは立ち上がり、じゃあおやすみ、と部屋から出て行った。

 昨晩の会話を思い出し、マスルールは眉間に皺を作る。部屋を出て行く背中はいつものように無防備だった。

 ジャーファルはマスルールを好意的な目で見ている。見つめる目には愛情が満ちている。それはマスルールも同じだ。銀色の髪が零れる白い額、丸く黒い目、低い鼻や頬に散るそばかす、名前を呼ぶ声、それらすべてに落ち着かなくなる自分がいる。些細な表情や仕草を見逃したくないとすら思っている。それだけはない。できることならば、その肌に触れたい。マスルールがジャーファルに抱く感情はそういう類いの物だ。

 ジャーファルが抱く感情はどうだろう。見ている限り、恋情や、肉欲の伴った好意があるとは思えない。子供や保護すべき者に対する視線に近い。やわらかく注がれる慈しみの視線を嫌だと思ったことは一度もない。だが、関係性が変わった今も同じだということに不満を感じるのだった。

 ジャーファルとの関係に変化が訪れたのはそう昔の話ではない。

 

 ――きみは私のことが好きなのかな。

 あまりにも自然に切り出されたものだから、マスルールは何を言われたのか理解できずに反応ができなかった。

 ジャーファルは静かに答えを待っている。黙り込んだまま答えずとも気分を害することなく、そのうち何事もなかったかのように歩き出し、その後も変わりない態度で振る舞うだろう、そう思わせるほどジャーファルは顔色ひとつ変えず落ち着いていた。

「違った?」

 仲間として、後輩として、の好きではないことは理解している。ただ、ジャーファルをそういう、恋愛の対象として見ているとは一度も考えたことはなかった。

「……いえ」

 それだけ答え、目を伏せる。考えたことはなかった。なかっただけだ。

 自覚したのはその時で、今まで抱いてた感情に名を与えられ、何かがすとんと落ち着いた。ジャーファルは、マスルールの答えに満足そうに頷いただけで、それ以上何も言わなかった。

 あの確認以来、一緒にいる時間は増えた。好いた相手と一緒にいたいと願うのは自然な感情だ。ジャーファルも努めて時間を作ってくれているようだった。

 嬉しく感じながらも、不安がある。一緒にいたくて時間を作っているのか、マスルールのために与えてくれているのかわからない。

 ジャーファルはマスルールに甘い。誰に聞いても頷くだろうし、マスルール本人すら理解している。一番自覚に欠けるのがジャーファルだった。自分でも甘いとは思っているようだが、すこしばかり甘いだけ、と思っている節があった。

 ジャーファルはマスルールに甘い。すこしではなく、大いに甘い。だからこそわからなくなる。

 自覚してから、幾度か触れようとした。触れようと思う度、以前と変わらない笑顔を向けられ、勇気は萎んだ。今まで培ってきた関係を壊すのは、怖かった。それでも、触れたい、抱きしめてみたいという気持は日に日に大きくなる。

 やがてその気持は夢に現われた。口づけをし、抱きしめ、何もない部屋に置かれた寝台に押し倒す。覆い被さり、服を剥ぐ。官服の下に隠された白い肌、潤む瞳、吐き出す息の熱っぽさ。寝台の上で、乱れた服のまま、体を捩らせて泣く姿。時折、マスルールを切なげに見上げる。

 初めて夢を見た時、欲は薄い方だと思っていたから自分自身驚いた。そこまで思い詰めていることも、知った。そんな出来事が積み重なるにつれ、好きになるということの重みが増えてゆく。どうやって解消すればいいのかわからない。肉体的な解消ならば簡単だが、それは一時的なことで根本的な解決にはならない。すぐにまた同じ夢を見るだろう。解決するための鍵はジャーファルが持っていた。肝心のジャーファルはそのことを、おそらく知らない。

「どうしたの」

 何に対する問いかけかわからず、黙っていると、

「めずらしくため息を吐き出していたから」

「……そうっすか?」

 気づかなかった。なんでもないです、と答えると、じっと目を見つめられる。逸らしたい気持と、ずっと見つめ合っていたい気持が綯い交ぜになって、結局動けず見つめ合うことになった。

 ジャーファルの目は深い闇色だ。見つめていると吸い込まれそうになる。

「悩みがあったら、いつでも相談相手になりますから」

 にこりと笑い、前を向く。緑色の被り布が翻る。後頭部と、背中。目の前にあるのは見慣れた姿だ。追い越さないように、後を付いてゆく。

 昔は見上げるようにして、追いかけていた。歩幅もちいさく、付いてゆくのにせわしなく足を交互させていた頃の話だ。体が大きくなり背を越す頃になると、ゆっくりと歩き、一定の距離を保つようにして付いてゆくようになった。努めてのことではない。そうするのはごく自然で、意識すらせず当たり前のようにそうなっていた。それは幼い昔、ジャーファルが、後を追うマスルールに合わせ、ゆっくりと歩くようになった時から決定付けられた。

 マスルールとジャーファルの間にあるいくつかの行動は、言葉なく決定付けられることが多い。

 例えば、謝肉宴の後片付け。宴の最中にも休みなく働いているジャーファルと違い、マスルールは用意された料理を食べ、酒を飲み、仲間たちと一緒にいる。だが、終わり間際になると、何を言われた訳でもないのに席を立ち、ジャーファルでは持てない大きな食器や重い器を重ねて持ち上げ、後を付いてゆくのだった。

 手伝ってほしいと頼まれたことは一度もない。手伝った方がいいっすか、と問いかけたこともない。一度、宴の最中に手伝おうとしたことがある。その時は、いいから楽しんできてください、と断られた。

 そうしてふと、ジャーファルが、ジャーファル個人のことでマスルールに頼ったことがないと気づく。王か、国、はたまた災厄に見舞われたどこかの国民か。彼らの力になることをジャーファルは望む。頼りにしていると言われたことはある。何かあった時は真っ先に王を守るように、と。 俺には欲望がある、確かめるように胸の中で呟き、次にジャーファルについて考える。ジャーファルにも欲や、望みがあるのだろうか。王や国のことではない、ただ純粋に自分のための願いが。あればいいと思う。そうして、教えてくれれば良い、と。前を歩くジャーファルは振り向かない。