それは未来に続くこと
夜の回廊を足早に進めば、かつかつ、と乾いた音が響いた。己自身が立てている音だというのに、耳に付いて仕方がない。テンポの速い足音が心臓を煽る。ひどく頬が熱かった。浮ついた心臓が体中に熱した血液を巡らせる。おそらくはそのせいだろうと思われた。いや違う、口の中で呟いて首を振るう。それは結果であり、原因ではない。
原因は先ほどの出来事にあった。寝具に深く沈んだ己の体と、覆い被さる体。自分を見下ろしている男は常と変わらぬ表情でただ静かに視線を注いでいる。普段よりは幾分か熱を帯びた瞳をしていたように思う。違いといえばそれぐらいのもので、それすらただの思い違いであったかもしれない。干涸びそうな咽を押し開き、ゆっくりと問いかけた。
「どうしたんだい?」
同時に、どうしてこんなに緊張する必要があるのだ、と疑問に思う。男はちいさく首を傾げただけで、答えようとはしなかった。答えがないことに安堵と不安を抱きながら身を起こした。正確にいうならば、起こそうとした。
肩に手が置かれた。手は優しく、それでいて確かな意志を持って、体を寝具へと押し戻した。瞬きをひとつふたつ繰り返し、どうしたんだい?と再度問う。先ほどと同じく答えはなかった。肩に置かれていた手が動き、張りついていた一房の前髪を払い、額を露にした。その時になって漸く体が震えた。頬に熱が集まる。もたつく舌で何事か言い募るが、自分でも何を言っているのかよく分からない。場違いな世間話だったように思う。
「昨日、食べた果物は甘かったね」
そんなことを口走ったようだった。いつものように「はあ」程度の返事しかくれない男は「じゃあ、今度、また」と静かに言葉を続けた。
「ああ、そうだね、また今度」
会話が途切れ、静寂が部屋中を満たした。この重苦しく不思議な熱を持った空気を打破するにはどうすればいいのだろう。いくら知識を仕入れたとて、こんな場合には一向に役に立たない。うまく働かない思考を呪いながら、ともかく、と口を開く。
「……そろそろ部屋に」
戻らなきゃ、と続く言葉は、親指が下唇を撫でる、たったそれだけの仕草で失われた。指は唇を優しく撫で、横へと滑る。触れる指先が滲ませた情欲に気付かぬ者がいるだろうか。
どんな反応を返せばいい、自問してみるが答えは出ない。もし、もしも、目の前の男が無理矢理にでも口付けなりすれば、抵抗も出来ただろう。ふざけないでだとか、馬鹿なことをするんじゃないよだとか、きつく嗜めることも出来た。けれど、無理強いをする様子は欠片たりともなく、することといえば、唇を撫でる、前髪を梳く、そんな愛らしい仕草ばかり。しかし、可愛らしさとは裏腹に指先に潜むのは熱を含む荒々しい感情だった。本人すらどうすればいいのか分からないのではないか。おそらくそうだろうと思えた。思いたかった。そうであれば、優しく諭し、落ち着くことを薦められる。
覆い被さる彼の目を見る。混乱しているのか、それとも至って冷静であるのか。目にはいつもとなんら変わりのない静かな色が湛えられていた。だから、名前を呼ぶことすら出来ない。名前を呼ぶことが引き金となったなら。息が苦しい。喘ぐように空気を吸い込むと、ようやくのこと指が離れてゆく。触れる指のなくなった唇は急激に熱を失ったように思えた。
「…………すみません」
落とされた言葉に心から安堵を覚え、重圧のなくなった体を起こす。ああいやいいんだよ、誤摩化すように呟いた。部屋には熱の失せた重い静寂が満ちる。衣擦れの音が大きく聞こえた。寝具の軋み、布が擦れ合う音。呼吸の音さえ神経に響く。短く息を吐き出す。
「おやすみ」
いまだ張りつめている空気を掻き消すように努めて明るく声を出し、足早に部屋を立ち去った。
その夜は部屋に戻っても眠れなかった。当たり前だ。いくら疎い人間でさえ気付く。彼は私のことが。すぐさま言葉を打ち消す。しかし何度打ち消しても言葉は霧散せず、脳裡にこびりついた。彼は私のことを、考えが至りそうになる度に否定の言葉を無意識に探そうとする。
いつもと変わらぬ瞳で見つめる癖に、指先は熱を持ち、優しく唇に触れた。思い出す。血が頭に登り、頬が火照る。心臓が震え、目眩がした。いままで知らなかった。指先の熱を、いつもと変わらぬ瞳のずっと奥に燃えるような色があることを。知らない、と呟いてみる。目を閉じる。睡魔はやってくる気配を見せない。何度も何度も同じことを考えている。指先、唇、熱、瞳、知らない、本当に知らなかった、肩を押した腕の強さ、本能で感じるわずかな恐怖、知らない振り、瞬き、一瞬だけ瞳に浮かんだ切なげな色。何度も何度も同じことを考え、知らない、と呟く。
否定に疲れたのだろう、ぽっかりと疑問が浮かび上がってきた。私は本当にいままで知らなかったのだろうか。あの静かな目が湛える感情に、気付いていなかったといえるだろうか。知っていて知らぬ振りをして、ずっと甘えていたのではないだろうか。よろめいた時に支えてくれる大きな手のひらに、特に用事もないのに後を付いてくることに、意味はないと言い聞かせていただけなのではないか。己に問いかけ、否定しようとして出来ないことに気付き、唇を噛んだ。
「……寝不足か?」
うつらうつら、と船を漕いでいる時だった。心配そうな声に我に返り、慌てて頭を下げた。
「俺はちっとも責めてなんかいないぞ」
呆れとも取れる含み笑いに苦笑を返し、再度、すみません、と呟く。いままでどんなに疲れていたとしても居眠などしたことなかったのに。息を吐き出し、しっかりせねばと軽く頬を叩く。
「珍しいな。何があった」
「たいしたことじゃありません。気にせず公務を」
「少しぐらい休憩してもかまわないだろう。それに、大事な部下の悩みを聞くのも王の努めだと俺は思っているが」
王の声はゆるやかに優しく耳に届き、ふっと肩の力が抜けた。窓から外を見遣れば、太陽は真上に近い。早い昼食だと思えば悪い時間ではないだろう。
了承を得た王は筆を置き、軽く背を伸ばすと、向かい合うように椅子を移動させた。
「何に悩んでいるか、当ててやろう」
わざとらしく顎に指を掛け、軽く唸った後、にやりと笑ってみせる。
「……マスルールのことだろう」
からかう色を浮かべた目がじっと見つめてくる。図星を指されて言葉が詰まった。
「…………な、ぜ」
「何故、と言われても見れば分かることだからな。お前はマスルールと視線を合わせようとしないし、マスルールもマスルールでお前の方へ視線を向けない。あいつがお前を見ないことなど滅多にないというのに。どうせ気まずいことでもあったのだろう。なんだ、押し倒されでもしたか」
「何故あなたがそれを……!」
頬が一瞬で赤くなる。頭が酸欠になり、言葉が出て来ない。王は二三度瞬きをし、苦笑を零した。
「当てずっぽうだったんだがな」
「……っ、……!」
言葉が浮かばない。撤回出来る機会はもうない。恥ずかしさに顔を覆う。
「ふむ、どこまでやられた」
「やられてません!」
「唇ぐらいは塞がれたか」
「……それもないです」
「押し倒されただけか」
「そう、ですね。押し倒されて、唇を撫でられて、髪に触れられただけです」
「なんだ意気地のない」
残念そうに鼻を鳴らす王を睨みつけるが、どこ吹く風か、涼しい顔をしている。気を取り直して、口を開く。
「意気地のないって、マスルールが人の気持を無視して、そんな、ひどいことする訳ないでしょう……」
咎める口調に王は、そうだな、と笑った。そうだ。そう思っていたから状況が理解出来なかったのだし、理解した後も不思議と怖くはなかったのだ。怖かったとすれば、あの真っすぐな、見て見ぬ振りをし続けて来た情熱が怖かった。認めたくなかった。ずっと温んだ優しい関係でいたかった。でもあの子はそうは思わなかったのだと、知るのが怖かった。
「……私は、どうすれば」
「俺が決めることじゃない。が、その気がないならきっぱりと振ってやれ」
「傷付き、ますよね」
「ああ。だが、このままでは生殺しだ。それではあまりにも哀れに思う」
「……あなたは、知っていたんですか」
「俺は部下のことならなんでも分かる。もちろん国民のこともな」
その言葉にちいさく微笑んだ後、わずかな棘を含ませて呟く。
「なら、もっと私の心労を軽くしてください」
「何、お前は俺に振り回されるのが楽しそうだからな」
だから俺はお前に迷惑を掛けるのだ、とどこか得意げに胸を張る王に気持がほぐれる。
「ジャーファル」
「はい」
「お前が嫌でなければ、一度ぐらい相手してやれ」
「……随分と軽く言う」
「それもそれで残酷な話だが、俺にとってはあいつも大事な部下だ。少しぐらい報われて欲しい」
まあお前が決めることだ、と優しい眼差しで呟いた王は、手を伸ばし、軽く頭をぽんぽんと叩いた。
とはいえ、すぐに答えが出る訳でもない。公務中に居眠をするような睡眠状態は脱したが、悩みはいまだ心の中央に鎮座している。悩みの大元であるマスルールは廊下ではち合わせた王と他愛のない会話を交わし、つい先ほど別れたところだ。
「……お前も随分と意気地のない」
呆れた王の声に、仕方ないでしょう、と八つ当たり混じり呟く。王は大事な部下のひとりであるマスルールに手を振り、その姿が廊下の端に消えるまで見送っている。マスルールは気付いただろうか。何も言わないからといって気付いていないとは思えない。王宮で王がひとりで歩くことなど珍しい。ならばきっと気付いているに違いない。背中を合わせたまま溜息を吐き出す。
「なんだ、まだ腹を括ってないのか」
「…………それはどちらの意味で」
「どちらの意味でも、だ」
王の背中に隠れるようにぺったりとくっついたまま、そっと様子を窺う。遠くに見える見慣れた赤髪の、見慣れない後ろ姿。思えば彼はいつも後ろにいた。
「どんな顔、してましたか」
「そうだなぁ。飼い主に捨てられた犬のような顔、だな」
「……嘘でしょう」
「はは、似たようなものだ。そんなに気になるなら直接見ればいいだろう」
「……意地の悪い」
このままではいけない。はち合わせる度に王の背に隠れる訳にはいかない。それに仕事の効率も下がっている。理由など簡単だ。執務室の扉が開く度に机の下に隠れているせいだ。いまだ真っ当に顔を合わせる勇気がない。それに思ったより感情が表に出やすくなっている。王ならばともかく他の者に知れることだけは避けたかった。一番良いのは手早く問題を解決することだと分かってはいるのだけれど、と肩を落とす。
「私だって」
「ん?」
「私がこんなに情けないだなんて、思いもしなかった」
「ふむ、お前は有能で決断力もある。それが何故自分のことになると発揮出来ないのだろうなぁ」
「……ええ本当に」
「ところで、ジャーファル」
「はい」
「俺はいつまで突っ立っていればいい」
「ああっ、すみません!もう大丈夫です。行きましょう」
歩き始めた王の背中に続きながら、一度だけ赤髪の消えた廊下の端を見遣った。
「それ、持ってこいって言われたんすけど」
抱きかかえている三つの巻物を指差された。舌打ちしたくなる。王に頼まれた巻物を抱え、書庫の扉を開けた瞬間、大きな体が行く先を塞いだ。わざわざ顔を確かめる必要もない。赤く灼けた肌と、己とは比べ物にならないくらい立派な体躯。王に対する様々な罵倒が浮かんでは消える。マスルールに背を向けて扉を閉め、気付かれぬようにちいさく息を吐き出してからゆっくりと振り返った。
「じゃあ、きみに頼もうかな」
ぎこちなく笑顔を作り、顔を上げる。はあ、と曖昧な肯定だか相槌だか返ってきて、ああ変わらないな、と安堵する。何事もなかったように行動してくれるならそれでかまわない、胸の中でそう呟く。はい、と巻物を渡すと、受け取るより先に手首を掴まれた。心臓が跳ねる。何事もなかったように行動してくれたら忘れてしまおうとしていた自分の甘い考えに苛立つ。
「逃げないでください」
普段より強い声音にぎくりと体が強張る。一瞬だけ視線を向けた。声音とは裏腹にいつもと同じ顔をしている。飼い主に捨てられたような顔なんて嘘吐き、先日の王の言葉を思い出し、胸の内で毒気づく。目の前にはそびえるように立つ男、背後には閉められた扉。逃げ道はないと諦め、少しでも意図を感じ取ろうとまじまじと見つめたが、久しぶりに見た顔にさして違いはなかった。
マスルールはといえば無言のまま見下ろしてくるばかりで、自ら引き止めたというのに話を切り出す様子すらない。長い沈黙に、世間話でもなんでいいから話の切っ掛けを、と必死で思考を巡らせるが、焦りばかりが先立って何も思い浮かばない。沈黙が続く。場違いなことに、どこかで長閑な鳥の鳴き声がした。空は青く、流れる雲は白い。風は穏やかで、微かに潮の匂いがした。沈黙のうちに外に対する意識は消え去り、掴まれた腕に全ての神経が集中してゆく。
「……あの」
ぽつり、と落ちた言葉に弾かれたように、はいっ、と答える。これではどちらが年上か分からない。強張りに気付いたマスルールは片方の口の端をわずかに持ち上げた後、
「もうしないんで」
安心してください、と呟く。切なげな色が瞳を走り、一瞬で消え去る。一瞬のことではあったが、確かにそれを見た。息が詰まる。変わらないと思っていた顔に見つけた揺らぎは、好きだという感情を改めて突きつけた。動揺に気付かれぬよう気遣いながら口を開く。
「ああ、うん、そうしてくれると助かるよ。いきなりだとびっくりするしね」
前もって断ればいいって訳でもないけど、と付け加え、笑顔を作ってみせる。安堵したように頬が緩むのを見て、泣きたいような、それでいてやわらかい気持になる。いまならばきっと修復は出来るのだ。
「あなたは」
幾分か緩んだ気持で見上げ、うん、と頷く。
「俺のこと、弟だか、子供だか、ただの後輩だか……そういう風にしか見てないと分かってたんすけど、少しは意識してくれないかな、と思って。でも、浅はかでした」
「いいんだよ。私も随分と鈍感で、きみもつらかったろう?」
「いえ、傍にいられたら、それだけで、……まあ綺麗事だったんスけど」
「そう。……私は、まだきみの気持にどう答えればいいのか分からないけど、でも、そんなに嫌じゃなかったよ」
「…………」
随分と気が晴れて、自然に頬が緩む。にこにこと見つめる先には、同じように笑顔の後輩がいる、筈だった。予想に反して硬直した様子のマスルールに首を傾げる。
「どうしたんだい?」
「もう一度」
「何が?」
「嫌じゃ、なかった?」
「そりゃ多少は怖かったけど、きみなら、そんなに嫌じゃないなぁって……っ!」
体が浮き、天井が近くなったかと思えば、地面が近くなる。ばさっと音がすると同時に目の前が暗くなった。頭巾のせいだと気付いたのはしばらくしてからで、見えるのはつるりとした廊下と、無惨にも放り出され転がった巻物だ。
「巻物……!」
「あとで拾います。傷がついてたら俺が謝ります」
慌てて頭巾を押さえ、体を起こす。担ぎ上げられている。理解すると同時に青くなる。
「あの、一体、何が、どうして、マスルール?」
問えば短く吐き捨てるように、あなたは酷い、と呟いた。初めて聞く声だ。背後で書庫の扉が開く音がした。マスルールは迷わず足を進める。涼しい場所に作られた書庫は昼間でも薄暗い。ひやりとした空気と紙とインクの匂い。
「ねぇ待って、私、何かおかしなこと言ったかな」
縺れそうになる舌をかろうじて残っていた冷静さで抑えながら問う。
「言いました。嫌じゃないって」
「別に、おかしくはないだろう?」
「……分からないんすか」
「分からないよ」
困惑も露な声音にようやくのこと立ち止まり、書庫の一番奥の場所で降ろされた。解放されたかといえばそうではなく、鍛え上げられた腕は強い力ではなかったがしっかりと腕を掴み、逃げ出すのを防いでいるようだった。薄暗い部屋は不安を呼び起こす。
「どこまでなら平気っすか」
「どこまで、って、何が」
「この段階で知らない振りするのって男らしくないっすよね」
「……」
唇を噛み締める。確かに嘘は言っていない。嫌ではなかった。嫌だったならば抵抗なりしただろう。ただ、だからといって、良かったかといえばそうではない。王の言葉が脳裡を過る。その気がないならきっぱり振ってやるべきだ、と。同時に嫌でなければ一度ぐらい相手してやれ、とも。
真剣な、切羽詰まった瞳がぐっと近づいてきて、息が詰まる。名前を口にしたマスルールの吐息が唇に触れる。背はぺったりと壁に押しつけられていてこれ以上後ろに下がることは出来ない。掴まれた手首は解放されたが、代わりに壁に置かれた両腕が左右へ逃げることを阻止している。ちいさく唸る。
「ちょっと、待って」
「待ちます。いくらでも」
「……明日、でも?」
はい、と頷くマスルールにほぅっと安堵の息を吐く。なんていい子なんだろう。微動だにしないのは気になるけれど、先延ばしにすることを許してくれたのは助かった。じゃあ頼まれた巻物を持って行かなきゃね、と笑ってみせたがやはり微動だにしない。むしろ距離が縮まっている気さえする。
「マスルール?」
「……待ちます。明日でも明後日でも、ずっと。でも、ここから逃げるのは駄目っす」
許してない!全然許してないし、待つどころか決断を強要してる!
「いや、でもね、ここでずっとなんて無理だろう?」
せめてもと反論してみたが、はあ、と声を漏らしたきり黙り込んでしまった。無言の重圧に神経が削られる。こうしてみるときみって体大きいし怖いね、なんて思っている場合ではない。
「……きみは、どこまでが、いいの?」
口に出してからこの質問は失敗しただろうか悩む。
「そうすね、……あなたが許してくれるところまで」
右手が動き、優しく頬を撫でた。体が過敏に反応し、強張る。
「嫌だと思ったら言ってください」
顔が近づいてきて、眉間の辺りに唇が押しつけられた。案外やわらかい唇を受け止めながら、いまだどうすればいいのか迷っている。腰に腕が回り、躊躇いの後に抱き寄せられた。ふたつの体が隙間なくくっつく。心臓が激しく鼓動を打ち鳴らし始め、体中に熱の籠った血液を巡らせる。押しのける為に胸に置いた両手に力は込められなかった。首に頭を埋められ、くすぐったさに震えた。やわらかい唇が押し当てられ、弾かれたように体が反応する。自分の意志で反応する体を制御するのは難しいことだった。
釦が外され、ひやりとした外気が肌に触れる。が、すぐさま唇が落ちてきて、押し当てられた部分に熱が生まれた。ぎゅっと目を閉じ、考える。嫌では、ない。でも怖い。行為自体が怖いのか、後に戻れないことが怖いのか、それとも全て許しそうになる自分が怖いのか。知らず、唇が動いていた。
「……意気地のない、男だって思ってくれてかまわない……。でも、私にはどうするのが一番いいのか、わからない。きみが、どうしても、苦しいっていうなら、少しぐらい、一度ぐらい、って思うけど、でもそんな同情なんかできみが救われるとは思えなくて、だから……」
声が震える。空気を取り込む為に大きく息を吸う。冷たい空気に少しばかり冷静さを取り戻せた気がした。目を開ければ、装飾の施された天井が見える。簡素ではあるが美しい装飾をぼんやりと見つめ、後はもう任せてしまおう、と狡いことを思う。
「……俺」
呆れたような息が吐き出されると同時に言葉が零れる。
「そういうところが」
続く言葉はなく、代わりに「だから無理強いしにくいんすよね」と事も無げに言い切ったマスルールはゆっくりと惜しむように腕を離した。体が離れる。寂しさが胸を過り、けれど知らぬ顔をした。
「触っていいすか」
ほお、と呟き、返事を待つ様子は確かに犬のようでもあった。ちいさく肯定を返すと、やはりいつもと変わらぬ表情で手を伸ばし、頬に触れる。大きい手のひらが頬に触れ、愛おしむように撫でた。くすぐったさに身を固くする。
「髪は」
いいよ、ちいさな声で返事をする。武骨な指が一瞬躊躇いつつも移動し、銀色の髪の一房を摘まみ上げる。頭巾からわずかに覗く髪を飽くことなく梳き、時折、指先が頬に触れた。あの夜と同じ指だ。体温は穏やかなままであの夜より優しい。その優しさのせいだろう、自分が犬か猫になったようなそんな気がしてくる。
「……考えて、これから少しでも考えてくれたら、それでいいっす」
「考えて、考えて、答えが出なくてずっとこのままだったら?」
「それでもいいです」
「そんなの、生殺しじゃないか」
自分が導く結論だというのに、なんて酷い話なんだろう、と眉を寄せた。
「いままで変わりません」
きっぱりと言い切られて、今度は罪悪感で胸が重くなる。
「いえ、多少はマシっすね」
「うう……本当にごめん……」
別に責めてないっすけど、といつも通りの顔で言う。
「避けられている間の方がきつかったですし」
零された言葉に顔を見つめる。目で見る限りではいつもと変わらない。表情の少ない、感情が現れにくい、見慣れたいつもの顔だ。
「うん、私もさびしかったよ」
そう微笑んだ瞬間、マスルールの眉間に皺が寄り、更にはちいさく息を吐き出した。また何かおかしなことでも言ったのだろうか。複雑な感情が眉間に集約されているのを見て取り、首を傾げる。しばしの沈黙の後、マスルールが呟いたのは「言葉には気をつけてください」だった。
- memo
- 2011.0323/ それは未来に続くこと
くっつきそうでくっつかず、めんどくせーやつらだなぁ、とシン様に思われてるマスジャ。