その夜、めずらしく酒を飲んだジャーファルは酔っぱらっていた。普段ならば決して飲まない酒を、一息に飲み干して、「おいしい」と笑顔で言うものだから、なんだか嬉しくなってどんどん注ぎ足した。飲ませすぎたか?と思案したのは、自分が飲む分さえ注ぎ足した後だった。
そして今、ジャーファルはとろんとした目つきで、俺の膝の上に乗っている。新しい酒瓶を取りに部屋から出て行こうとする俺の手を握り締めて「……置いていかないで」と泣きそうな顔で言うものだから、何も言えなくなって席に戻った。椅子に腰掛ければ、嬉しそうに笑い、膝に乗ってきたのだった。
「これで、シンはどこにもいかない」
「……そうだな」
よかった、と背中の羽根をぱたぱたさせてジャーファルは笑う。その笑顔は可愛い。まるで魔物のように可愛い。その笑顔と、膝の上の体の感触だけで十分につらいのだが(主に理性的な意味で)、それだけでなく、甘えるようにすりすりと頬を擦り寄せてきた。さらには、「シン、好き、あなたと会えてよかった。あなたが拾ってくれてよかった。うれしい。あなたの傍にいられるの、うれしい」と舌っ足らずな調子でずっと呟き続けているのだから、これは試練かなにかか、と疑ってしまうのも仕方のないことだった。ジャーファルこわい。可愛さがこわい。
「シンは?シンは、私と一緒で、嬉しい?嫌じゃない?嬉しい?」
「ああもちろん、嬉しいとも」
「本当?嘘つかないですか。私、シンに迷惑ばっかり掛けているのに」
「何が迷惑なものか。お前のおかげで毎日が楽しい。楽しいだけじゃない。とても快適だ。お前がいなくなったら、さぞや不便であろう」
「本当に?」
「嘘なんか言わんさ」
「嬉しいです。私、嬉しい」
にこにこと笑い、また頬を擦り寄せてくる。体が隙間なくくっついて、ジャーファルの体温を知れた。
「シン、とてもいい匂い」
そう囁き、首筋に鼻を押しつけてくる。くんくん、と匂いを嗅いで、うっとりと息を吐き出した。その吐き出した息の熱っぽさにくらくらして、目眩を覚える。これはただの拷問だな……と遠い目をして、天井を見上げた。
「おいしそう」
お前もな、と言い掛け、言葉を飲み込む。
「シン、お腹空きました」
「……そうか」
拷問はまだ続くようだ。潤んだ目でじっと俺を見つめている。このまま口づけもとい、ジャーファルにとっては食事を与えれば、理性の糸がぷっつんと切れてもおかしくはなかった。なんとかして切り抜けられないものだろうかと考えはするが、うるうるとした黒い目で見つめられると、拒絶など到底できそうにない。
手を延ばし、軽く頬を撫でた。たったそれだけの仕草だったのに、ジャーファルはびくんと体を跳ねさせ、あまつさえ「……っあ」と何とも言えぬ色っぽい声を漏らす。
「…………」
「……シン」
なんだこれ。ただひたすらにつらい。ジャーファルは申し訳なさそうな顔で俺を見つめ、ごはん、と声を落とした。
「あー……、うん、ご飯な」
短く息を吐き、軽く唇を合わせる。やわらかい唇が、俺の下唇を軽く食んだ。はむ、はむ、と幾度か繰り返している。咽は動かない。ただひたすらに唇を合わせ、はむはむと食む。食事しろよ。零れそうになる呻き声を噛み殺しながら、じっと耐える。ジャーファルは時折ちいさな笑い声を零しながら、ひたすらに唇を唇で弄んでいる。ぺろり、と上唇を舐められたところで、耐え切れず体を引き剥がした。
「食べ物で遊んじゃいけないと習わなかったか」
俺は至って大真面目だ。ジャーファルは、きょとんと目を見開き、首を傾げる。くそ、可愛いなお前は!
「シンは食べ物だけど、食べ物じゃありません」
「でも食べ物は食べ物だろう」
「シンはシンです。私の、大切な人」
そう言い、ふにゃり、と笑った。釣られてふにゃりと笑いそうになる。酔っ払いとはこんなにも質が悪いものなのか。しばらくは酒を控えよう。にやけてしまいそうになる顔を引き締めながら、口を開く。ジャーファルは、俺の表情が緩みかけたことを察し、話は済んだと判断したのか、また顔を近づけてきた。おかげで言うはずだった小言は引っ込んだ。一度だけ唇が触れた後に、また引き剥がす。
「……シンが、いじわる、する」
眉を寄せて、頬を膨らませる。お前、いままでそんな顔したことなかったろうが!
「腹が減っているのだろう?」
「いいえ」
「……減ってないのか」
「はい、あなたのおかげで私はいつもお腹いっぱいで、いつも幸せ」
にこにこと笑う顔がなんとも可愛い。心からの笑顔だ。だが、ここで許しては最後。唇を弄ばれ、理性と欲望の狭間で戦わねばならなくなる。体をくっつけてくるだとか、人の寝台に潜り込むだとか、寝息が肌をくすぐるだとか、食事をする時のうっとりとした表情だとか、それらの誘惑と戦い、なんとか勝利を収めてきたが、今晩ほどの苦戦ではなかった。どうにかして膝の上から降ろさなければ、なんかもう色々とつらい。
「ずっとあなたの傍にいたい。……あなたと一緒に死にたい」
難しいけれど、と笑って、ジャーファルはくっついてくる。その言葉にどう返していいかわからず、黙り込んだ。普段はそのことを意識しない。もしかしたら、意図的に考えないようにしていたかもしれない。ジャーファルとの生活は楽しくて、幸福に満ちていて、永遠に続くような気がしてしまう。けれど、人間である俺には命に限りというものがあり、魔物であるジャーファルの命は、限りがあったとしても、それはとても永い。
理性と欲望と、それから消化しきれない寂しさが胸の中で混ざり合い、行動を戸惑わせる。しばらく黙り込んだ後、静かにため息を吐き出す。ジャーファルは俺の肩に頬を置いて、目を閉じていた。手を伸ばし、抱き締める。銀色の髪を梳いて、頭を撫でた。
「……私、幸せです」
うっとりと囁くジャーファルの声はやはり幸福に満ちている。
2012.1031
いちゃいちゃえろえろな話にするつもりだったのだ…