「ジャーファル」
王の声は怒気を含んでいる。低く地を這うような声を聞くのは初めてだ。怒りに声を震わせることは幾度かあった。だが、そのような状況に置いて、王の声は伸びやかに響いた。苦しめられた民を鼓舞するように、または力強く支えるように、それから自分が何故怒りを覚えているのか、目の前の苦しみの元凶に伝える為に。その度に、我が王を誇らしく思うのは常のことだ。
しかし、いま、王の声は珍しく暗い色を含んでいる。
「……」
王であるシンドバッドと向き合ったジャーファルは、静かに立ち、目を伏せていた。あどけなさを残した少女めいた面に感情はない。一度、瞬きをし、顔を上げたジャーファルは唇を持ち上げて、やわらかく微笑んだ。
「なんですか」
「お前、俺を庇ったな」
「庇ったわけではありません。ただ、あなたが金属器を構えるのに、少々もたついていたので時間稼ぎをしようと思っただけのことです」
ダンジョン攻略には危険が付きまとう。侵入者を排除する為の数々の罠、なにより血と肉に飢えた怪物が蠢いてる。長い年月の間に成長し続けた巨大な怪物はどのダンジョンにも存在する。運が良ければ出会わずに済む。が、今回は運が悪かった。蜘蛛と蟷螂の合の子のような容姿の巨大な怪物は四本の手足に肉を切り裂く刃を備え付けていた。口からは死臭が溢れ、生臭い匂いが死の予感を伴って体中に纏わりついた。おそらくねぐらにはダンジョンに入り込んだ人間や、同じくダンジョンに蠢くちいさな怪物の喰い散らかされた残骸が転がっているに違いない。
想像し、仲間にはなりたくないな、とちいさく呟く。紐を括り付けた刃物を掌に納め、呼吸を整える。自分に出来ることは、この怪物の足を止めることだ。
数十分後、怪物は苦しんでいた。堅い体にヒビが入り、体液が滲み出している。苦しげに上げる雄叫びは部屋中の空気を振るわせ、三人の眉を顰めさせた。最後の力を振り絞り、怪物は手足を振り上げる。四本あった内の三本は床に転がっていた。
王を己を苦しめる三つの個体の頭だと判断したのだろう。怪物は狙いを定めて、刃のついた手足を振り下ろす。王の足下には砕けた一本の手足が転がっていた。常ならばそのような愚鈍なことはしなかったろう。しかし、王もまた傷付き疲れていた。転がっていた手足の欠片に足をとられ、体が傾いた。傾いた拍子に手に持っていた金属器が音を立てて落ちる。振り下ろされた手足が王の元へ辿り着くのに時間はいらない。考えるより先に体が動いた。傷付く恐怖など、王を失う恐ろしさに比べれば可愛いものだ。
「俺が、それを信じると思うか?」
シンドバッドの声に意識を戻す。着込んだ服によって外見ではそうと分からないが、ジャーファルの左肩にはまだ包帯が巻かれている。
「信じるも信じないもあなたの勝手ですけれどね。私は、わざわざあなたを庇ったりしませんよ。あなたは私より強いのですから」
射抜くような視線を真っ向から受け止め、ジャーファルはやわらかく笑う。なにを馬鹿げたことを、と、そのうち笑い声さえ上げそうだ。シンドバッドは目を細め、ただジャーファルを見つめる。
「……もし、今度、同じことをすれば、もう二度とお前をダンジョンへは連れていかない」
その言葉に曖昧に笑い、首を傾ける。シンドバッドは険しい表情のまま身を翻し、歩き去った。姿が見えなくなるまで見つめていたジャーファルは、ようやくのこと肩の力を抜き、壁へ寄り添い、体を預けた。初めて聞く王の声と重圧。知らず、溜息が零れる。じくり、と肩が痛んだ。自覚すれば痛みが酷くなる。痛みを振り払うように緩く頭を揺らす。
怪物の手足は従者の肩に深く喰い込み、意識を遠くさせた。まだ気を失う訳にはいかぬ、と、手に力を込める。手足の喰い込んでいる左肩はもはや使い物にならないだろう。まだ使える右腕を持ち上げ、紐を投げつける。赤い紐はたったひとつ残った手足に絡みつき、動きを封じた。拘束から逃れようともがく手足は容赦なく痛みを与えた。零れそうになる悲鳴を噛み殺す。脂汗が滲んで、呼吸が出来なくなる。意識が途切れるその瞬間、王がジンを呼ぶ声が聞こえた。
目が覚めた時、ジャーファルはダンジョンに入る前に取っていた宿屋のベッドの上にいた。窓から見えていたダンジョンは跡形もなく消え失せている。無事に攻略出来たようだと安堵すると、また意識が遠くなりそうだった。深く息を吐き出すことで意識を保ち、部屋を見回す。王はどこへ行ったのだろう。もうひとりの従者は傍らにいる。
「シンは?」
「……やけ酒、っスかね」
歯切れ悪く答えるマスルールに眉を顰めた。
「新たなジンは手に入れたのだろう?」
「……あんたが、怪我したんで」
「それだけ?」
はい、と頷くマスルールに、なんだそんなことで、と溜息を吐き出す。途端、いつも無口で感情を表に出すことのない男の眉根が寄った。
「それ」
「それ?」
「……言わない方がいいスよ」
「まぁ、だろうね。君は?」
怪我大丈夫かい、と訊ねると、眉間の皺を解き、丈夫なんで、と言葉を落とした。記憶では結構な怪我をしていた筈なのだが、目の前の男に大きな怪我の跡は見受けられなかった。
夜遅く帰って来た王は酒が入っているにも関わらず、いつもの陽気さは欠片もなかった。ずっと押し黙り、眉間に皺を寄せている。なにより一度もこちらの方を見ようとしなかった。気まずさは感じたが、従者は自分の行動を間違ったとは露程も思わなかったため弁解もしなかった。ただ、王の心を煩わせてしまったことだけが心の中に沈んで、気分を重くさせる。
そうして、帰路の間、王は一言もしゃべらず、従者も口を噤んだままだった。残りのひとりは元より無口であったから、ひどく辛気くさい道中になった。王宮に帰り着いてすぐ従者は安静を言い渡され、ベッドに押し込まれた。いつもは机仕事など嫌がる王も大人しく机についていたものだから、従者も大人しくベッドに収まっているしかなかった。そうしてようやく床から離れられたと思ったら、険しい表情の王に呼び止められたのだ。
王の怒りは理解出来た。王ならばそう言うだろうということも分かっていた。だから、嘘を吐いたのだ。見え透いた嘘を。何を言われても、何度咎められても、同じ状況になれば同じように身を投げ出すことなど分かり切っていることだ。ならば、せめて口先だけでも、と出した言葉は自分でも分かるくらい薄っぺらいものだった。
(……もう二度と、連れていかない、か)
王の言葉を胸の中で繰り返す。苦笑が零れた。
確かに王は従者についてよく理解している。王の傍にいられぬことは従者にとってつらいことであり、ダンジョンへ連れて行ってもらえないとあっては、残された不安に心を押しつぶされてしまうだろう。もし、帰ってこなかったら。もし攻略出来なかったら。そんな不安を抱え、王の帰りを待つのはつらい。
――ただ王は知らない。従者にとって、王が死ぬということはそれだけで死を意味するということを。