「どおしたの?」
紅玉姫君が丸い目をぱちりぱちりと瞬きさせ、問いかける。赤く腫れた頬のことだろう。曖昧な笑みを浮かべつつ、頬を軽く撫でた。指先に熱を感知する。
「これは、その、ええと、……こちらの政務官殿をまた少し怒らせてしまいまして」
肝心なところはぼかし、素直に白状すると、まあ、と唇を隠した。
やはり眷属器を使い、治癒しておくべきだったかもしれない。こんな些細なことで眷属の力を使うのはどうか、と悩んだ結果、放置してしまった。
「大丈夫?痛くはない?」
心配そうに私の顔をのぞき込む姫君は、なんとも騙しやす……ではなく、素直であられる。
「……大丈夫であります。私が失礼なことをした結果でありますし、姫君が心を砕くなどそんな」
わざとらしく顔を伏せて、苦悩を滲ませる。姫君は素直に信じ込む。
「いいのよお。だって夏黄文は大事な従者だもの。……でも、何をしたの?私からも謝るべきではなくて?」
「…………」
酒の勢いで犯しました、とは到底言えない。もしかしたら、そのような事実はなく、あの女がそうしたかのように細工した可能性もなきにしもあらず。ならば、真実を見極めてから対応を考えても遅くはないだろう。どちらにせよ、姫君には何もお伝えするつもりはないが。
「いえ、許しは得ましたから、姫君のお手を煩わせるなどとても!」
「そお?」
「そうです!姫君はお気になさらず!」
姫君は、大丈夫なのかしら?といまだ心配そうであったが、私の勢いに押され、一応の納得はしたようだった。なによりなにより。とどめとして、
「そろそろ煌帝国に帰る準備を……」
と帰国を促すと、話題を変えるようにして、
「今日の朝餉は何かしら。一度でいいから、シンドバッド様とご一緒したいわあ」
そう言って背を向けて歩き出した。姫君は本当に扱いやすい……ではなく素直なお方である。
朝餉を終えると私たちにはやるべきことがなくなる。そうは言っても、姫君は飽きることなく、シンドリアの王宮内を歩き回り、楽しげに見て回っていた。入れる場所は限られているが、それでも十分に楽しいのだろう。中庭には草が敷き詰められ、草花が自由勝手に生えて、自然な姿を晒していた。煌帝国の敷地にある庭はどれも職人の手が加えられてるため、自由に生えている草花は確かにめずらしいものだった。
日差しは、初めてこの島に足を踏み入れた時から穏やかであたたかく、頬を撫でる風も心地よいものだ。あまりにも平和で、ずっとこの国にいたら、出世欲や闘争心などという激しい欲望は消えてなくなってしまうのではないかと思われた。……決して負け惜しみではなく。
姫君はここ数日中庭に咲いている野花を積み、花かんむりを作成する作業に夢中だ。その様子を、日陰から見守る。従者である以上、姫君の傍を離れてはならない。あちこちを歩き回り、見失うよりは安心でもあった。
従者としての役割はこなしていると判断し、昨晩の真偽について考え出す。……本当に致したのだろうか。全く覚えていない。酒を飲む約束をし、部屋に赴き、会話を交わし、それから酒を飲んだ。なにやらあの女のことを嫌いではないとかなんとか言ってしまったような気がする。会話の内容さえあやふやだった。覚えているのは嬉しそうに笑う女が、やたらはしゃいで、次から次に酒を注いでくる場面だ。あれも怪しい。酒を飲ませ、酔い潰し、寝台まで運ぶ。そうして起きる頃合いを見計らって、服を脱ぎ、私の隣へと横たわる。私が起きると、まるで犯されたかのように振る舞う。と、そこまで考えて、女の体に残った色濃い情事の跡を思い出した。胸元には赤い鬱血があり、髪は乱れ、確か目元には泣いた跡も見受けられた。やっぱり私なのか、私がやったのか。しかし他の男に鬱血を残してもらい、髪は自分の手で乱す、涙の跡は……あの女ならば何もなくとも涙ぐらいは流せるに違いない。では、一体誰が女の肌に鬱血を残したのだ。身近な人間だろう。気の置ける、工作をしても快く協力してくれる男。その男は誰なのだ、という疑問に至ると、思考はそれで途切れた。あの女の人間関係なんて知らない。初恋は王だといい、シンドバッド王に心から服従していたが、さすがにそんなことまでは頼まないだろう。
もしかしたら工作なのではないか、という疑いはそこで止まった。あとは探りを入れて、真実かどうか調べるしかない。そして、真実であった場合が問題だ。実際に性交しておいて、酔っていて覚えていません、その上嘘ではないかと疑いました、ということが知れて見ろ。殴られるだけでは済まないだろう。あの人を殺しそうな目つきといったら、心の臓が冷えて縮こまる思いがする。
あたたかい日差しの中で、ぶるっと震えが走った。やはり距離を取ろう。だが、あんなことをしておいて、見るからに避けてしまっては振りだ。女が、犯されました、と泣いて訴えて見ろ。この国に来たばかりで起こした騒動のせいで、私の信頼は地に落ちている。他国の政務官を手込めにして、弱みを握り、この国に取り入るように策略を巡らせている、と言われたら、おそらく誰もが信じるだろう。姫君すら、私を軽蔑の眼差しで見やるに違いない。……いや、どうかな。多少は信じてくれるかもしれない。が、不信感を抱かせることは間違いない。
なんとかして、適度に距離を取る言い訳をひねりだし、それから納得させなければならない。つまりは再度あの女と話をする必要があった。
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