月曜日の朝は起きるのが億劫だ。ここぞとばかりに夜更かししたツケがやってくる。平日にだって夜更かしはしているけれど、ちょっと寝るのが遅くなった程度の夜更かしと、朝方まで寝ずに遊んでやると気合いの入った夜更かしとは全然違う。つまりは眠たい。なんかもう学校なんていいや、という気持になる。そのぬくぬくした惰性からジュダルを引っぱり出すのは、いつだって隣りの部屋の地味な女だ。
「起きなさい!」
尖った声が耳元で響く。枕の下に頭を突っ込み、体を丸める。むり、とだけ呟いて、意識を手放そうとした瞬間、今度は枕を取り上げられた。首根っこを掴まれ、引きずられる。
「ほら、顔を洗って」
洗面台の前まで引きずられてもジュダルの目蓋は重たい。
「……いい加減起きないと、そのうっとおしい髪を綺麗にバッサリ切り落としますよ」
ひんやりとした声は、本気を窺わせた。そこで仕方なく、目を擦り、立ち上がる。
「不法侵入で訴えたら、お前が負けるからな」
「それはきちんと鍵を閉めてから言いなさい」
不用心な、と眉を寄せる。そんなに眉間に皺ばっかり寄せていたら、跡が付くんじゃねぇの、といつも思う。思うだけで言わない。言ったら、誰のせいだと思っているんですか、と返ってくることは簡単に想像できる。うわ、うっとおしい、と脳内に浮かんだ女に顔を顰めた。
「なんですか、その顔。起こしてあげたんだから、感謝のひとつぐらいしなさい」
「……頼んでねぇもん」
「さっさと顔を洗って、歯を磨いて、着替えて、ご飯食べて!急がないと遅刻しますよ」
遅刻してもいい、と咽元まで出かかった言葉を飲み込む。朝から口うるさく言われるのはうんざりする。
「…………髪」
「まったく」
ため息ひとつ、洗面台に置いてあったブラシを取る。白い指が黒髪の中に差し込まれて、ゆっくりと絡まった髪を解く。次にブラシで髪を梳く。丁寧に丁寧に髪を梳かれるのは嫌いじゃない。どちらかといえば気持良いくらいで、また目蓋が重たくなってくる。目蓋がくっつきそうになった途端、解けていなかった絡まった髪をブラシで引っ張られて目が覚めた。
「いっ、ててて!やめろよ、バカ!」
「バカとはなんですか、バカとは!」
人が折角梳いてあげているのに、と怒った声が続く。そうはいっても痛いものは痛い。眦に涙を溜めたまま、振り返る。
「ほんとのことじゃん」
「バカにバカと言われる筋合いはありません」
「バカっていう方がバカなんだぜ」
「じゃあ、バカなのはあなたじゃないですか」
「…………」
先にバカと言ったのはコイツじゃなかったけ?と首を捻る。不服そうに下唇を突き出すと、ため息を吐き出された。
「いいからとっとと準備する!」
「着替え」
「……さすがに着替えは自分でなさい」
長い髪を編み込みながら、深く息を吐き出して肩を落とす。背を向けて洗面所から出て行くジャーファルに、ケチ、と舌を出した。
部屋に戻ると、テーブルの上にトーストが置いてあった。こんがりと焼けた食パンの上にバターが乗っかっている。
「ジャムは?」
「ありません」
「なんで」
「なんでって、あなたが食べたんでしょ」
そういえばつい先日ジャムだけを舐めて空にした記憶がないでもない。
「買っとけよ」
「……自分で買え」
さすがに苛立ちが募ってきたのか、受け答えが簡潔で乱暴な物言いになってきた。人前では丁寧な言葉使いしかしない癖に、と思えば、なんとなくムカついてくる。テーブルの前に坐り、置かれたトーストを手に持ち、もそもそと食べ始める。おいしくない、ということはないが物足りない。甘みが足りない。目の前にミルクを置かれた。
「…………ジュース」
「自分で用意しろ」
「可愛くねえの!」
「あなたほどではありません」
可愛くないったらありゃしない、と眉間に皺を寄せる。
「年下は可愛いんだろ」
「例外だっています」
と、まっすぐにジュダルを見据えて言う。可愛くねえの、と舌を出して、残りのトーストを口の中に詰め込み、ミルクで押し流す。
「ほら、パン屑が付いてるじゃないですか」
胸元を手で軽く振り払うと、パン屑が落ちた。唇の横も指先で拭われる。おかんか、と言い出したくなるのを飲み込んだ。言えばまた機嫌が悪くなるだろう。
「私は外で待ってますから、はやく着替えを済ませて出てくるんですよ」
立ち上がり部屋の外へ出て行くジャーファルの背中と、ベッドを交互に見る。
「待ってますからね」
念を入れて言われて、ベッドに潜り込むのを諦める。また首根っこを引っ張られて、引きずられるのはたまらない。のそのそと着替えを済ませて、軽い鞄を肩に掛けて靴の踵を踏みつぶす。扉を開けると同時に、
「遅い!」
と怒鳴られた。腕時計に視線を送り、走りますよ、と手を掴まれた。慌てて振り払う。
「やめろよ、バカ!」
「手でも掴まないと歩くでしょ」
「……歩かねーもん」
歩くつもりだったが、素直に認める訳にはいかない。ジャーファルはといえば、それ以上言い返すことはせず「じゃあ走ってください」と走り出した。息を吐き出し、きちんと靴を履く。どうせなら追い越して、先に駅で待っていたい。あとからやってきたジャーファルを「遅いな!」とふんぞり返って出迎えてやるのだ、と考えてる間に、背中は遠くになっている。走るの速いんだよ、と慌てて追いかけた。結局追い越すことはできず、ほぼ同時に辿り着いた。
朝っぱらから運動したくねえ、と心底思った。だからといって早起きもしたくない。もうちょっと近いところへアパートがあればよかったのだが、現在借りている部屋が一番家賃が安かったのだ。家賃が安い、それを第一の理由にしているのはジャーファルの方だ。ジャーファルには親がいない。親戚もいなかった。幼い頃育った施設は進学すると同時に飛び出した。今はアルバイトをしながら、高校へ行き、ひとりで暮らしている。そんな訳だから出費はなるべく抑えたい。
一方ジュダルはといえば、同じ施設で育ったジャーファルの後を付いてきた、と言ってもいいだろう。理由は特にない、と思う。わざわざ隣りの部屋まで借りた理由もさしてない、と本人は思っている。強いて理由をあげるならば、隣りにいれば身の回りのことをやってもらえるだろうという算段だ。実際、部屋の掃除などはジャーファルがやってくれる。そんな訳でジュダルの一人暮らしはとても快適だ。ジャーファルの負担はそれなりに大きい。
「なんとか間に合いましたね」
電車に乗り込み、一息吐いたジャーファルが呟く。安堵するも束の間、通学に出勤にと多数の人々が乗り込み、電車の中はぎゅうぎゅう詰めになる。遅刻してった方が楽なのに、とうんざりしながら、三つ編みを前に垂らす。後ろに垂らしたままにしておくと、人波に引っ張られたり、誰かの釦に引っかかったりと碌な目に合わない。自慢の髪だが、こういう時ばかりは切ってしまおうかと思わないでもない。電車から解放された瞬間に忘れるから、実行されることはないだろう。
ジャーファルが降りる駅に電車が止まり、扉が開く。
「ちゃんと学校に行くんですよ」
言い聞かせるような声で言い、さっさと電車を降りる。ジュダルはあと一駅分、電車に揺られなければならない。ふらり、と後を付いていき、電車から降りると、すぐ背後で扉の閉まる音がした。
「あ」
「……何やってるんですか」
「だって、お前だけずりーじゃん。あんな人ばっかの乗り物ヤダ」
「ヤダって、どうするんですか、学校」
「歩く」
「遅刻しますよ」
「いつものことだし」
深く息を吐き出したジャーファルが目を細めて、見つめてくる。
「折角、学費も出してもらっているのに。本当にいい加減なんだから」
呆れているのかちいさく首を振るい、何度もため息を吐き出す。
「ともかく、次の電車に乗って学校に行くんですよ。私も急がないと遅刻しますから」
「うわ、冷てえの!次の電車乗れっていうなら、来るまで一緒にいろよ」
「なんであなたの遅刻に付き合わなきゃいけないんですか」
「いいじゃん。あ、じゃあ、お前の学校に着いてく!」
おもしろそうだしいいだろ、行きたい、と騒げば、真顔で、
「やめてください」
と拒絶された。本当にそればっかりは勘弁してください、と畳み掛けるように拒絶された。なんだよちっとも可愛くねえ、と頬を膨らませたが、効果はほとんどなかった。