たのしい迷宮攻略〜獣姦未遂編

その時、私たち三人は一匹の大きな獣と向かい合っていた。地を這うような唸り声が洞窟中に響く。唸り声に反応したのか、今まで洞窟のあちこちに散らばっていた非力そうなモンスターの姿は一斉に消え失せていた。身の危険を感じ取り、すこしでも安全な場所に隠れたのだろう。
牙を剥き出す獣の毛は黒く逆立っている。四つ足の犬のような外見に、赤い目が爛々と輝いていた。歯ぎしりを繰り返す口からは唾液が垂れ、地面に跡を残している。大きな獣で、立ち上がればマスルールを越すだろう。
不吉な気配に満ちていた。今回の迷宮攻略は、この獣に出会うまであまりにも順調すぎた。以前の攻略者たちが残してくれた道しるべは正しい道を示していたし、秘板に記されていた謎もあっけなく解けた。
「これでは攻略しがいがないな」
シンがそう零すほど簡単に進んだ。そうして薄暗い道を歩き続けていた私たちの前に現れたがこの獣だ。歩き続けた先にあったのは広場だった。光を蓄えた石が壁中に埋もれていて、場を明るくしている。久方に見る明るい色と、息苦しさを感じない開けた場所に安堵の息を吐き出した時、黒い影が飛び込んできたのだった。
突如表れた黒い影に戦闘の体勢を取る。シンを背後に守る形に、マスルールと共に一歩前に出て、対象を睨みつけた。目の前の獣が手強いことは見ただけで知れた。横目で洞窟内に視線を巡らせると、白い骨と薄汚れた布切れが散らばっているのが目に止まった。獣へと視線を戻す。その刹那、赤い目と視線がかち合った。ぞわり、と肌が粟立つ。獣が口の端を歪め、笑ったように見えた。ねばついた、嫌な空気が身を包み込む。振り払うようにして気を引き締め、袖に隠している武器を力強く握り込めた。
一瞬の出来事だった。獣がこちらへ向かってきたと思った瞬間、強い衝動が襲いかかり、体が吹き飛ばされた。明らかに私を狙っていた。体勢を整える間なく堅い岩肌へ叩きつけられる。強かに打ち付けた体が痛む。上手く呼吸が出来ず、喉を喘がせた。獣は地面に崩れ落ちた私の目の前に立っている。赤い目が私を見下し、一歩、近づいてきた。獣の後ろに立つシンは険しい顔で剣を構えている。マスルールもいつでも駆け出せるように構えていた。
体は痺れて指一本動かせない、唸る獣が近づいてくる、そんな場面ではあったが、私は落ち着いていた。怪我をし、足手まといになってしまうことは後で嫌というほど私を苦しめるだろうが、それは生きていなければ出来ないことだ。シンならばきっと私を助けてくれる。その信頼が私の心を穏やかにしていた。シンが足を踏み出したのと、獣が私の胸に前脚を掛けたのはほぼ同じだった。
シンの足が止まる。獣は大きく口を開け、私の首に牙を押し当てた。心臓が冷える。首の肉を押す、鋭い牙の感触。ひとつ息を吐き出せば、それが合図になるのではないか。死の予感に呼吸すらままならない。だが、いつまで経っても獣の牙が首にのめり込むことはなかった。まるでいつでも殺せると見せつけるように押し当てているだけだ。獣の吐き出す生暖かい息が頬を撫で、嫌悪感に震えた。唾液が服を湿らせる。
獣はしばらくそうしていたが、シンとマスルールが手を出してこないのを確認したのか、首から牙を浮かせた。安堵するのもつかの間、大きく口を開け、私の胴体を銜える。地面から体が浮く。力加減を知っているのか、牙が突き刺さることはなかった。一体、何を目的にしているのだろう。体中に不安が満ちる。シンが助けてくれるとは言え、不安は私の体に張りつき、心臓はばくばくと激しく鳴り続けた。死にたくない。シンと過ごした時間はあまりにも短い。まだ一緒にいたい。傍にいて、誰よりも力になれるよう努めたい。与えてくれた幸福に報いる働きを、私はまだしていない。決別の予感に泣き出しそうになる。だが、そんな悲しみより、また手間を掛けさせてしまうことの方が切なかった。
獣の足は速く、あっという間にその場から離れていく。薄暗い横道に連れ込まれると、途端に不安と恐怖が大きくなった。それでも唯一動かせる眼球を周囲に巡らせる。光りに満ちた広場はもう遠くに点として見えるばかりで、シンの姿もマスルールの姿も認識出来なかった。シンは助けに来てくれるだろう。いっそ見捨ててくれないかと願う気持とは別に、やはり助けを求める気持もある。申し訳ありません……、その言葉だけ呟き、私は意識を落とした。


目覚めたのは、放り出された衝撃からだった。衝撃とはいえ、さほど乱暴に投げ出された訳ではない。
「……う」
ちいさく呻き、体を起こそうとしたが力が入らない。何度か起き上がれないものかと努力してみたが無駄だった。目だけを動かし、自分の置かれた状況を探る。薄暗い洞穴の中だ。私の体は草の上に放り出されている。こんな日の当たらないところに草が生えているものなのだろうか。だが、ここは迷宮内だ。地上の動植物と一緒にしてはいけない。不思議と青々した草の合間に、抜け落ちたのだろう獣の黒い毛が数本散っている。獣が草を寝台として使っているのは間違いがなかった。
どうしてこんなところへ、そう疑問に思っていると、獣が近づいてきた。口を開き、舌を伸ばす。私の頬を舐める大きな舌はざらざらしていて、すこし痛かった。頬が唾液にまみれ、首筋へと伝う。嫌悪に体が震えた。
逃げ道はないかと視線を巡らせる。私が放り出されたのは洞穴の奥の方で、背後は固い岩肌だけだ。入り口は獣が塞いでいる。獣は私を喰うつもりも、殺すつもりもないようだった。今はもう唸ってもいない。一体なんのために、と考えている私の目に、布切れが飛び込んできた。鋭い刃で切り裂かれたような布切れ。骨はない。布の種類は一種類ではなかった。薄汚れた安っぽい布地もあったが、華やかな色合いの布地も紛れている。壊れた髪飾りを見つけた瞬間、ひとつの考えが浮かび、全身から血の気が引く。心臓が大きく鐘を打ったかと思えば、激しく鳴り始め、背中に冷たい汗が流れた。目の前の獣はただ静かに私を見つめている。
迷宮攻略者には女性もいた筈だ。攻略者でなかったとしても、奴隷として、部下として付いてきた(もしくは無理矢理連れて来られた)者もいるだろう。おそらく彼女たちもこのねぐらに連れてこられ、それから。
獣は変わらずこちらを見下ろしている。まるで私が状況を理解するのを待っているかのように。息を飲む。彼女たちはどうなったのだろう。嫌な想像ばかりが脳裏を巡る。いっそ喰われた方がマシだ。死ぬ訳にはいかないから喰われるのは困るが、それにしたってこれから起こるだろう出来事が想像通りであれば、死んだ方がマシだという目に合わされるのは間違いない。
その想像は間違っていないと決定づけたのは獣の股ぐらに隆起した一物だった。はっ、はっ、と息を吐き出し、獣が近づいてくる。顔が歪む。拒絶の言葉は喉に張りついて出てこなかった。出てきたところで言葉が通じるとは思えないから、無意味だろう。それでも首を振るい、動かない体を叱咤し、獣から逃げだそうと足掻く。どれも無駄な努力で、獣は私に覆い被さると、先ほどと同じように首に牙を押し当てた。動けばすぐに噛み砕くと示すように。
それだけで私は身動きがとれなくなった。出来ることといえば、シンを信じ、助けを待つことだけだ。一体私はどれほどシンに迷惑を掛けるのだろう。スライムが体内へ入ってきた時だって、触手に捕まった時だって迷惑を掛けたというのに。自分があまりにも情けなくて涙が滲む。それでも、唇を噛みしめ、諦めてはいけないと気を強く持つ。どんな目に合ったって、私は生きていたい。生きて、ずっとシンの傍にいるのだ。そうすることが私の喜びであり、願いなのだから。
獣の前脚が私の胸に押しつけられた。鋭い爪が服に掛けられ、そのまま切り裂かれる。
「――ッ!」
皮膚に燃えるような痛みを感じ、視線を落とせば、鎖骨から腹に掛けて一本の傷が走っていた。痛みとは裏腹に、それほど深くはないようでかすり傷のようなものだ。血の玉が浮かぶ。力加減を間違えたのだろう。ここに連れてこられたのだろう彼女たちのことを思った。どんな目に合ったのか。逃げ出せた者はいるのか。いや、逃げ出せたとしても彼女たちはこの迷宮で力尽きたに違いない。
迷宮が残っている、それは誰も迷宮を攻略出来なかったということで、誰もここから出て行った者はいないということだ。どこかで生きているとも思えなかった。せめて安らかな終わりが彼女たちにあればと思う。いや、ここに連れてこられる前に息絶えていればいいとすら願った。
獣は、ゆっくりと牙を浮かせた。舌を伸ばし、傷に沿わせる。ざらざらとした肉厚の舌が、傷ごと私の体を舐めた。獣は何度も何度も傷を舐め、唾液を塗り込める。舌が這うたびに、傷から熱が忍び込んできた。
「あ、あ……っ」
この感覚は知っていた。別の迷宮で触手に捕らわれた時のことだ。体を這う触手が纏う粘液は皮膚から忍び込み、無理矢理に体の熱を呼び起こした。ぞっとする。爪で傷を残したのは、決して力加減を間違えたからではない。唾液を直接塗り込めるためだ。
「……いや、いや……」
無駄だと理解していても、震える声で懇願する。ざらざらした舌の感触が肌を滑るたびに痺れが全身に走った。頭が熱で上手く働かなくなる。呼吸が荒くなり、胸が上下する。唾液を塗り込める作業は済んだのか、獣の舌は乳房を舐め上げ、舌先を巻き付けてきた。
「っ、あ、……ああ!」
意志とは無関係に声が零れる。せめて体が動けばと思うが、一向に動かせない。腕の力は弛緩して、武器を握り込めることすらできなかった。獣の舌は、首も胸も、腹も、露出してる部分すべてを蹂躙し、おかげで上半身はほとんど唾液にまみれている。その唾液が触れる部分から新たに熱が生み出され、思考を狂わせた。
体が熱い。舌の感触だけでは物足りない。自分に覆い被さる獣が愛おしくてたまらなくなる。黒い毛は艶やかだし、鋭い牙も獲物を喰らうのには最適だろう。赤い目は宝石のように美しく輝いているし、前脚も後ろ脚もがっちりとたくましい。もし、こんな獣と子を為せたならばどんなにすばらしいか。浮かび上がった考えにうっとりと息を吐き出す。子が欲しい。この力強く美しい獣の子が。
私の願いを感じ取ったのだろうか、獣は私の体に爪を引っ掛け、優しく俯せにさせる。舌がくるぶしに触れ、そこから脹ら脛へ流れた。腰布の中に舌が忍び込み、足の間の秘部をつつく。
「ふぁ、っ、あ、……んん」
舌先だけが焦らすように軽く触れては離れた。もどかしさに腰が揺れる。舌が中へと入り込む。ぬめった分厚い舌で中を刺激され、見悶える。分泌される粘液を舐めとった舌はまた滑り込み、中を掻き乱した。それをひたすら繰り返される。与えられる快感に狂いそうになる。気持良さに悶えながらも、切なさに喘いだ。欲しいものは舌ではない。これじゃない。もっと大きくて固いもの。まるで女を蹂躙するために存在しているかのような、あの物が欲しい。先ほど見た、隆起した獣の一物を思い出す。何故、あの時の私は、あれが恐ろしく見えたのだろう。今はただあれが欲しくてたまらないというのに。
獣の一物は大きくそそり立っていた。突き立てられれば、裂け、壊れるのではないかと思えるほどに立派だった。だからこそ、先に舌で入り口をやわらげようとしているのではないのだろうか。笑みが零れる。たくましく力強く、美しく、それでいて心優しい。気にせずとも良いのに。例え、裂けようが壊れようが、望むならばそうしてくれていいのに。いや、そうされたいのに。獣の舌が抜かれた。予感に体が震える。わずか、体の自由が戻ってきたようで、安堵し、膝を立てた。足は震えているが、すぐさま獣が支えてくれることだろう。膣口に熱い塊が押し当てられる。期待のあまり、涙が零れる。
「ジャーファル!」
熱に浮かされていた頭に飛び込んできた声に、一瞬、冷静さが戻る。だが、思考が巡らない。自分が何をしているのか、それがわからない。こうするのは正しいことで、なにより私自身が望んでいることなのに迷いが生まれた。私は、一体何のためにここにいるのか。
獣が私の体から退き、声の方へと顔を向けた。怒っているのか、唸り、牙を剥きだしている。獣の前にいるのは、シンだ。姿を認めた瞬間、頭から熱が剥がれ落ちた。こんなことをしている場合ではない。まだ熱の残る体を奮い立たせ、立ち上がる。
「大丈夫か」
獣から視線を外さぬまま、シンが問いかける。
「……大丈夫、です」
口を開くことすら億劫でたまらなかったが、声を絞り出し、安否を伝えた。そうか、と安堵を滲ませる声に体中あたたかい気持が満ちる。やはりシンは助けに来てくれるのだ。
獣はシンに視線を据えたまま、背後に気を配っている様子はなかった。大したことは出来ないと侮っているのだろう。舐めてもらっては困る。袖の中に隠した武器を握り込める。四肢に力を込めることは難しいが、隙を作ることはできるだろう。狙いを定め、紐を投げつける。赤い紐は獣の後ろ脚に巻き付いた。
連れ帰った獲物が反撃するなど考えもしなかったのだろう。獣が振り向く。隙はそれだけで十分だった。シンの足が地を蹴り、獣の額に両手のひらを押しつけた。獣は振り払うように首を左右に揺らすが、シンはすでに獣から離れ、脇を通り抜け、私の傍まで走り寄っていた。
「走れるか?」
「……残念ながら、そこまでの体力は」
申し訳ありません、と頭を垂れる私の頭を軽く撫でると、
「ならば、仕方ない」
と言うがはやいか横抱きに抱え上げた。予想はついていたから、おとなしくシンの首に腕を回して抱きつく。絶対に離さないと意志を伝えるようにシンは強く私を抱き寄せ、駆け出す隙を見計らっていた。
獣は、唸りながら体を反転させようとして、いきなり倒れた。大きな体が倒れたことで空気が揺れる。シンはもう走り出していた。たん、たん、たん、と小気味よい音を立て、あっという間に洞穴から離れる。遠ざかる洞穴を見つめ、ちいさく息を吐き出した。獣が追ってくる気配はなかった。



獣のねぐらから大分離れた辺りで、シンは足を止めた。周囲を見渡し、近くにモンスターの気配がないことを確認してから、次に私を見る。
「……間一髪だったな」
鋭かった目付きが一瞬にしてやわらかく綻ぶ。その優しい眼差しは私の心臓を跳ねさせた。恥ずかしさからか、頬が熱くなる。顔を伏せ、口を開く。シンの顔を真っ正面から見る勇気がなかった。
「私が、もっとしっかりしていれば、あなたにこのような……」
「こら。こういう時は、まずなんだ?」
「…………ありがとうございます」
えらいえらい、と笑うシンは私をすっかり子供扱いだ。
「もう、歩けますから」
「本当か?」
「はい」
はっきり言えば、まだ体の調子は戻っていない。けれど、いつまでもシンの手を煩わせるのは情けないし、居たたまれなかった。シンはたっぷりと黙り込み、それからようやく私の体を地面に下ろした。足の裏が大地に着き、ぐっ、と力を入れて立ち上がる。……立ち上がろうとしたし、支えてくれるシンの肩から腕を離した。自力で立ち上がり、歩いていく筈だった私は、その場にへたり込み、いくら立ち上がろうとしても立ち上がれなかった。
「ほら、見ろ」
何故か得意げなシンが先ほどと同じように私を横抱きにして持ち上げた。
「頼らねばならない時は頼れといつも言っているだろう。なんでも抱え込もうとするな」
私はシンの腕の中で縮こまるしかない。
「マスルールが、どこか安全な場所で待っている筈だ。どこかに目印が」
と、周囲を見渡す。目印を見つけたのだろうシンは私を抱きかかえたまま、走り出した。岩肌にはいくつかの丸い穴が開いている。そのひとつに身を滑り込ませた。足元の辺り、目立たないようにひっそりと×印が付けてある。
マスルールは、小部屋ひとつほどに開けている明るい場所で待っていた。獣と出会った広場で見た、光る石が岩肌から覗いている。シンと私の姿を認めると、眉間の皺が解けた。思えば、シンばかりではなくマスルールにも面倒を掛け続けていた。迷宮を攻略して、街に帰ったらなにか埋め合わせをしよう、そう思いながら、マスルールに笑みを向ける。
「……大丈夫っすか」
「うん、シンが助けてくれたから」
「まったく。今回ばかりは肝が冷えた」
ため息を吐き出し、私を降ろすシンに寄りかかりながら、すみません……と言葉を落とす。足に力が入らず、ひとりで立つのはまだ難しかった。切り裂かれた服を片手で掻き合わせ、息を落とす。ひどく疲れた。
「水、汲んでくるんで」
と、マスルールが水筒と布を持ち、消えてゆく。あちらの方へ泉でもあるのだろう。
「どうしてひとりで来たんですか」
大きめの石に腰を降ろし、シンを見上げる。上手くいったから良いものを、もし怪我などしては申し訳がない。
「そちらの方が身動きが取りやすかったからだ。最優先はお前を無事に保護することで、倒すのは二の次だ」
確かに、倒れ伏した獣に止めを刺すことはなく、一目散に駆け出して逃げた。
「……あなたにはご迷惑ばかり」
役に立てないだけならばまだいい。足を引っ張るなんて情けないにもほどがある。ため息が零れた。シンがこうやって迷宮攻略のお供に、と私を選んでくれるのは嬉しい。嬉しいけれど、その気持に報いることが出来ないのならば、私は付いてくるべきではないのだろう。
「何を考えているのか知らんが、迷宮攻略に危険は付き物だろう。今回はお前が危険に晒されたが、次は俺かもしれんし、マスルールかもしれん」
「……今回ばかりではありません。前も、その前も、です」
「いいじゃないか。気にするな。俺は気にしておらんぞ。気にしてないどころかむしろ」
「むしろ?」
「ああ、いや、こちらの話だ。足を引っ張っていると思い悩もうが、お前を連れて迷宮に挑みたいと思ったら、俺は無理矢理にでも連れていくぞ」
ふん、と胸を張って言い切るシンの姿に胸の奥が暖かくなる。嬉しい。目の前が滲んで、慌てて顔を伏せた。泣いている姿を見られるのは気恥ずかしい。視線を落としたところで、自分がみっともない格好をしていることに気づいて、自分の荷物を探す。何か大きめの布なりあれば胸を隠せるだろう。獣に付けられた傷は赤くみみず腫れのようになって走っている。指先でそっとなぞると、体がぞわりと震えた。唾液はもう乾いていて、肌がぴりぴりと引っ張られる感触がある。マスルールが帰ってきたら水を分けてもらって拭き取ろう。
「ジャーファル?」
「はい」
「大丈夫か。すこし、顔が赤い」
そういえば、頬が熱かった。いや、頬ばかりではない。体全体が熱を帯び、頭がぼんやりとしてくる。膝を付いたシンが心配そうに私の顔を覗き込む。手を伸ばし、額に手のひらを押し当てた。
「熱が、あるな」
眉根が寄り、心配そうな色が濃くなる。
「具合はどうだ。外に出るまで堪えられるか」
額に押し当てられていた手のひらが、労るように頬へ移動した。大きくて、あたたかい手のひら。その手で頬を撫でられると、ぞわぞわと肌の内側が疼いた。シンは不安げに私を見つめている。
凛々しい眉と、その下には猛禽類のような鋭く力強い金色の瞳。その瞳に私が映っていた。うっとりと見惚れるほど男らしい精悍な顔立ち。抱き上げた腕を思い出す。引き寄せられ、頬を押しつけた厚い胸板を思い出す。軽々と私を持ち上げる、たくましい男の体。
あの獣はたくましく、力強く、美しく、その上心優しかった。それはシンも同じだ。たくましく力強く、美しく優しい。そればかりではない。私を救い、助け、守ってくれる。それから、誰ひとり代わりのない、ただひとりの、私の王。
「……シン」
「もうすぐマスルールが帰ってくる筈だ。だから」
言葉を紡ぐシンの首に腕を回し、きつく体を寄せる。息を飲む気配が伝わって、私は不安になった。こんなにも愛おしいのに、シンが同じように私を愛おしいと思ってくれるかどうかはわからないのだ。そう思うと切なくてたまらなくなった。切なさに押され、腕の力が増す。シンは驚いているようで、何も言わないし、私の体を引き剥がそうともしなかった。愛おしいと思ってもらえなくてもいい。何も言わず、私の体を引き剥がさずにいてくれることが嬉しい。 体と体が隙間なくくっつくと足が震える。肩口に顔を埋めると、シンの匂いがした。汗と埃、それからわずか血の匂いがした。怪我をしたのでなければいいが、と心配に思う。きっと返り血だろう。シンは強い。誰よりも、強く気高い。脳裡に浮かぶのは、今まで見てきたシンの戦う姿だ。思い出すと、体の奥がぞくぞくと震える。
シン、シン、とたまらず名前を呼ぶ。
「……どうした」
戸惑っているのか、声に震えが感じ取れた。宥めるように優しく私の頭を撫でる。その労りの手付きにも、私の体は浅ましく震えた。ようやくの思いで、体を離し、シンを見上げる。
「シン」
私を見下ろす視線は不安げだった。困ったように寄せられた眉根など滅多に見ることはない。おかしくなって笑みを零すと、シンも安堵したのか同じく笑った。手を伸ばし、頬に触れる。
「……私を、犯してください」
言葉はすんなりと唇から零れた。目を見開くシンの唇の横に口づけを贈る。固まったまま動かないシンに抱きついて、そのまま押し倒した。腰の上に跨がり、そのまま唇を合わせた。やわらかい唇の感触に体の奥から震えが生まれる。もっと口づけをしたい。もっとくっつきたい。
シンは驚いたように目を見開き、私を見上げていた。その金色の目に私が映っている、それだけで嬉しくてたまらない。ぞくぞくと震えが走る。もっと見て欲しい。もっと触れあいたい。
手を取り、自分の胸に押し当てた。ちいさくささやかだが、膨らんではいる。今はちいさく触り心地は物足りないかもしれないが、孕めば多少なりとも大きくなるだろう。
「シン、あなたの、子種がほしい……」
そっと言葉を落とせば、息を飲む気配が伝わった。シンはくださるだろうか。私の腹の中に、他の誰の物でもない、シンの精液を注いでくれるだろうか。どうか、と願う気持で再度シンに口づける。ただの部下の身でありながら、こんなことを口走るなんて間違っている。けれど、どうしても欲しい。シンは何も答えない。私を軽蔑しているのかもしれない。切なくなって、勝手に涙が零れた。
「……お願いします、一度だけでいい。私にご慈悲を、どうか」
ぐすぐすと鼻を啜りながら、シンの胸元へすがりつく。シンの腕が動き、私の体を抱きしめた。
「ジャーファル、お前は、混乱しているだけだ。だから、そんなことは」
「いいえ。いいえ、違います。本心からです。あなたに抱かれたい。中に、あなたの精液を注ぎ込まれたい。あなたの子が欲しい。……そう、子を為すほどたくさん注ぎ込まれたいのです」
口に出した言葉に、自分自身うっとりとする。もし、そうしてくれたなら私はどんなに満たされるだろう。膣からあふれ出すほどに大量の精液を注ぎ込まれる様を想像し、心臓が高鳴る。
「シン、私のことお嫌いですか……?」
「そんな、ことは、……っ」
「……っあ」
臀部の辺りに熱く固いものが触れた。ぐいぐいと臀部の肉を押し上げる感覚に、自然と腰が揺れる。布越しに触れるそれは、十分な大きさと固さを備えていることが知れた。こんなもので中を掻き回されるのかと思えば、体が疼いて、はしたなくねだってしまいそうになる。
「……嬉しい」
そろりと膨らんだ性器へ指を沿わせる。私の体に反応してくれたことが嬉しくてたまらない。シンの眉間には険しい皺が刻まれていた。額に汗が浮いていて、何かに耐えるように歯を食いしばっている。その唇へ唇を落とし、首に舌を這わせた。体をくっつければ心臓の音が伝わる。ちゅっちゅっ、と胸元へ口づけ、頬をすり寄せた。あたたかい体。たくましい体。愛おしい、シンの体。触れているだけで、心臓がどきどきと高鳴り、期待に打ち震える。
「わたしの体も、さわって、くださいませんか……?」
囁けば、たっぷりの躊躇いの後、シンの腕が動き、私の胸を撫でた。
「あっ、あ、……ふぁ」
そろりと皮膚を撫でるだけの指先に惑わされ、涙が零れる。体の奥から際限なく欲が溢れ出た。もっとさわってほしい。もっと、もっと。どんなに乱暴にされたってかまわない。後ろから突き立てられ、激しく打ち付けられたい。はやく中を掻き回されたい。蹂躙してほしい。服従したい。そうして、子宮の中に溢れるほど注いでもらうのだ。考えるだけでため息が零れる。
期待に応えるように、シンの腕が腰布の裾から忍び込み、太腿を撫でさすった。たったそれだけで、快楽が体を震わせる。シン、シン、私の愛おしい王。あなたの子を孕めるのならば、他にはもう何も望まない。シンの指先が太腿の内側へ移動し、たっぷりと潤みを湛えた中心に触れようとした。
私の期待を打ち壊したのは、たくましい腕だった。赤く灼けた、シンよりもたくましい腕。脇の下に両手を差し入れられたかと思えば、そのまま持ち上げられ、横抱きに抱え上げられた。
「……マスルール、おねがい、はなして……」
「…………」
マスルールは私を一瞥しただけで、すぐに視線を前に向け、歩き始めた。シンから離されるのかと思えば、切なくて涙が零れる。
「おねがいします。わたし、あの人と」
いくら訴えてもマスルールは無言のまま歩き、それから、私を抱きかかえたまま泉へと身を浸した。冷たい水が体にまとわりつく。大きな手のひらが、私の肌を撫でた。水をかけ、肌を撫でる。傷の辺りは特に丁寧に水をかけ、何かを剥ぎ落とすかのように手のひらをひたすらに動かしていた。
やがて、体から熱が剥がれ落ちて、浮かされていた思考も明晰なものになっていく。
「…………大丈夫っすか」
「…………」
マスルールの目はただ不安げで、心底心配しているようだった。
「……あの、私」
自分が何をしたのか、何を口走ったのか、思い出し、急激に頬が熱くなる。マスルールの肩越しにシンが歩いてくるのが見えた。疲れたような表情で、ゆっくりと近づいてくる。居たたまれなくなって、マスルールの胸元に顔を埋めた。
「ごめん、その、しばらくこのままでいさせて」
「……はあ」
「どうだ、正気に戻ったか?」
「大丈夫みたいっす」
「その割には顔を見せんな。……次はマスルールを誘惑している、という訳ではないよな?」
「ち、違います……!随分勝手なことと十分に理解しているのですが、どうか、どうかさっきのことは忘れて……っ」
シンの返答はない。顔を見るのも怖くて、マスルールの胸元に顔を埋めてじっとしていることしかできない。
「……忘れてもいいが、ううん」
ちいさく唸った後、
「よし、忘れた!さっきは獣に連れ去られて危なかったな。だが、命に別状がなくてなによりだ。よかった」
よかったと呟く声は本当に優しい。そんなシンにあんなことを、と思い出して更に身を縮こまらせる。マスルールはじっとして動かない。まるで私の盾になってくれているようだ。おまけに私のせいでびしょ濡れだ。
「……ごめんね、着替えなんて持ってきてないのに」
「俺は、平気ですけど、あの、すみません……」
何故かマスルールが謝った。見上げると、視線を合わせないように天井を見ている。目を見ずに会話するなんてめずらしい。不思議に思いながら、ふと自分の体に視線を落とした。濡れた服は体に張りついて、曲線を露にしていた。うっすらと肌が透けている。着替えはもちろんない。布があれば体に巻き付けられると、頭に触れるも、指先に感じるのは髪だけだ。いつも被っている緑色の布はどこかへ消えてしまっている。一体、いつなくなったのか見当もつかない。
「…………シン」
「次はなんだ」
「荷物の中に、その、布があれば持ってきてくださいませんか……」
「ああ、その格好ではなあ。ちょっと待っていろ。……次の迷宮に行く時は着替えを持ってきた方がいいな」
そんなことを呟きながら、踵を返して、シンの背が消えた。
「とりあえず、水から出ようか。風邪ひくといけないから」
「はい」
マスルールは私の方へ視線を向けないように努めながら、水から上がり、転がっていた大きな石の上に腰掛けた。それから、身に付けていた鎧や装備をひとつひとつ外して、大事そうに地面に置いた。私もその後ろに腰を下ろし、水を含んだ布を絞る。水が足元に落ちて、流れた。水に濡れたせいかすこし肌寒かった。手のひらで腕を抱え、暖めるように撫でながら、ため息を零す。
「……私ったら、本当迷惑ばかり」
「…………」
「もっと役に立ちたいのに。せめて、足を引っ張らないように、したいのに」
「シンさんは」
ぼそり、とマスルールが言葉を落とす。
「結構、楽しそうですけど」
「楽しそう?」
「……あなたの面倒見るの」
頭の中で言葉を反芻して、首を傾ける。
「あまり、嬉しくないなあ」
そもそも本当に楽しく思っているのかどうかはわからない。なんたって獣に連れ去られた上に、助けたと思ったらいきなり押し倒してくるような女だ。あまりの不甲斐なさに肩を落とす。
「今回は、本気で不安だったみたいっすけど、前は」
「前は?」
先を促す私の問いに、マスルールは口を噤んでしまった。どうしたのだろうと振り返ると、シンが荷物を持って歩いてくるのが見えた。
「ん、なんの話をしていたんだ?」
マスルールに荷物を手渡しながら、シンが口を開く。
「……私が落ち込んでいるものですから、慰めてくれたんです。あなたは私の面倒見るの楽しそうだって」
「おお、確かに楽しいな。もちろんお前の面倒を見るのも楽しいぞ」
坐るマスルールの頭をわしわしと撫でながら、シンは笑う。
「今回は特に心配掛けたみたいで……。もう二度とこんなことはないよう気を付けます」
「そうだな。だが、この通り無事だったのだからそれで良い」
ほら、と手渡された布を受け取り、笑みを返す。感謝の気持が体の奥から滲んで、泣きそうになった。潤む目を見られないように背を向ける。
「向こうの岩影で着替えてきます」
「わかった。では、ここで火を熾して休憩の準備をしておこう」
岩影に身を隠し、引き裂かれた上にずぶ濡れになった服を脱いだ。濡れた肌を簡単に拭き、布を体に巻きつける。
迷宮攻略には時間が掛かる。それは、迷宮を攻略するには多大な困難が待ち受けているからであるが、それ以外にも、シンが隅から隅まで見て回ろうとする姿勢にも原因があった。だから寝食の準備は怠れない。同時に動きを制限しないために、荷物は極力減らさねばならない。体に巻きつけた布は、休息の際に使用する掛け布だった。掛け布は二枚用意していたが、一枚は私の服となったから、見張り以外のふたりは一枚の布を分け合うことになる。ひとつ不足が生じると、次から次に不足が生じるものだなあ、とため息を吐き出す。そうは言っても、掛け布が一枚不足する程度は予測の範囲内であり、特に問題はない。
着替えを終わらせて戻ると、焚き火が赤々と燃えていた。火の周りに、マスルールの服が掛けてある。その隣りに私の服も掛けた。乾いたら繕わなければならない。敷いてある布に座り込んで、暖を取る。冷えていた体が安堵して、肩の力が抜けた。
「ジャーファル、疲れたろう。先に休め」
大丈夫です、と言い返そうとして思い直す。私に出来る最良の選択は、体を休め、体調を万全にすることだ。疲れた体で迷宮内を歩き回るのは骨が折れる。シンやマスルールに負担を掛けてしまうことは容易に想像出来た。それに、眠っている間に服も乾いていることだろう。体を休めて目覚めたら、服を繕いながら、見張りをする。そう決めて、横になった。横になると、すぐさまもう一枚の布を掛けられた。
「あなた方はどうするんですか」
「火はあるし、それに布一枚体に巻きつけただけの女が、警戒心もなく眠っていては落ち着きが悪いというものだ。なあ?」
「……そう、っすね」
「そうですか?」
自分の体に視線を落とす。胸はさして膨らんでいないし、凹凸の少ない体つきをしている。確かに布一枚で頼りなくはあったが、男の欲をそそるとは到底思えない。掛け布を受け取ってもらうための冗談なのだろう。ならば、素直に承諾した方がいい。
「ありがとうございます」
シンは満足そうに笑って、まるで子供にするように私の頭を撫でた。マスルールも火の向こうで安堵したようにわずかに目を緩めた。


自覚はしていなかったが、随分と疲れていたようでぐっすりと眠ってしまった。もちろん、傍にいるのが信頼出来るシンとマスルールだったことも熟睡してしまった理由だろう。身を起こすと掛け布がずれて落ちた。
「体の調子はどうだ?」
火が消えぬように調整しながらシンが問いかけた。マスルールは、乾いた服を着込んで、丸まって眠っている。私の服も乾いたことだろう。起き上がり、使っていた掛け布をマスルールの大きな体に掛けて、次に乾いた自分の服を取り込んだ。
「ゆっくり休めましたから。今度はあなたが休む番です」
「いいじゃないか、もうすこし話をしよう」
「それは構いませんが、……繕いものをしながらでも?」
「迷宮を攻略して外に出た時、そんな格好をしていたら皆が驚くからな」
想像して見る。確かにそれは避けたい。手荷物の中から針と糸を取り出し、膝の上に裂かれた服を広げた。まるで刃物に切り裂かれたかのようだった。獣の爪を思い浮かべ、心臓がひやりとする。刃物のような爪が手足四本に備わっている。
「……あの獣」
「追ってくるかもしれんな」
「そう、思われますか?」
「あれの目当てはお前だろう。目的は、……繁殖のためか」
忌々しげに吐き捨てる。今はもう遠い薄暗い洞穴の中を思い出す。シンが助けに来てくれなければ、あの場所で獣に犯されていたのだな、とぼんやり考えた。幾人の女があの獣に連れ去られたのだろう。考えると、暗い気持に襲われた。
「次は、殺す」
冷酷な色を帯びた声が落ち、あまりの冷たさに驚いて、繕っていた服から顔を上げる。シンの目は真剣で、じっと燃える炎を見つめていた。冷たい声からは深い怒りを感じ取れた。その起因が、私にあることは間違いなかった。
「……無理はしないでください。それから、冷静さを欠いては事を為損じます」
「そうだな。気を付けよう」
「そろそろ休んでください。肝心のあなたが万全でないと困りますから」
何かあったらすぐに起こせよ、と言いつけて、シンは横になった。
繕いものは思ったより早く済んだ。疲労の溜まった目をぎゅっと閉じ、開く。血が循環し、わずかに疲労がやわらぐ感じがした。