「絶対にわざとなんです!」
眉を吊り上げ、ぷりぷりと怒る幼馴染みは頬を膨らませ、いかにも腹立たしいといった様子で口を開く。
「だって、あんなに読みたい本が被るなんてありえません。絶対にわざと!」
ここ数ヶ月、土曜日の夜に聞かされる愚痴は、図書館でばったり出会うという男の話だ。ちなみに俺は会ったことはない。よって顔だって知らない。
「どんな容姿なんだ」
「容姿?なんでそんなことが気になるんですか」
むくれた顔のまま問いかけるジャーファルはなんだかとても子供っぽくて落ち着きが悪い。人に対して警戒心がそれなりに強いジャーファルだが、見知らぬ人間や顔見知りの人間に対して拒絶を露にすることはとても少ない。ほとんどないと言ってもいいだろう。そのジャーファルがこんなにも苛立つなどめずらしい。
眉間に眉を寄せたまま、ジャーファルは男について話し始めた。
「……容姿、容姿ねえ。確か、背はあなたと同じくらいで」
結構高い。身長の高低で男の価値が決まるとは言わないが、低いよりは高い方がいいだろう。ジャーファルは背の高い男が好きだし。本人は無自覚なのだろうが、教師陣の中で懐いているのは背の高いヒナホホだし(ジャーファルにはよく『先生』を付けろと怒られる)、可愛がるのはやはり背の高いマスルールだ。なんだかんだ言いながら面倒を見ているシャルルカンだって背は低くない。もちろん俺だって背は高い方だ。
「顔は間抜け面です」
きっぱりと言い切るはいいが、あまりにも主観に満ちていて容姿はわからない。それ以上言うことはないようで唇を閉じてしまった。そんなにも気に喰わないものか……といっそ感心しながら、頭の中でジャーファルの言葉をまとめる。
毎週のように足を運ぶ図書館で、間抜け面の背の高い男とばったり会う。読みたい本に手を伸ばすと、毎回のようにその男の手が伸びてきて、同じ本を選ぶ。向こうの方が身長が高いせいで、上の方にある本はほとんど先を越されて借りることができない。それが続いた時には「よければどうぞ」と本を差し出してくるらしいのだが、上から目線を感じてそれも気に喰わないと言う。本を譲ってくれるのならばいい奴なんじゃないか……と呟いた言葉は鋭い眼光にて一瞬で黙殺された。
ともかく、その男のせいで図書館から帰ってきた土曜日の夜のジャーファルはいつもイライラしている。
俺はひとつの可能性を考えて落ち着かなかった。もしかしたら、もしかすると、その男はジャーファルのことが好きなのではないか。だってそうだろう。聞く話によると、もう数十回も読みたい本が被っているという。そんなことありえるだろうか。本の趣味が被っていたとしても、他にも同じジャンルの本はあるはずだし、つまりはジャーファルの言うようにわざと、同じ本を借りようとしているのではないかという想像だ。
ジャーファルは地味な見目をしていて、人目を惹く容姿はしていない。とはいえ、可愛いところがたくさんあるのだ。それはもういっぱい。例え俺の主観に満ちていると言われようと、ジャーファルは可愛い。可愛いったら可愛い。その男がジャーファルの愛らしさに気づいていないとどうして言えようか。ジャーファルに言ったならば「馬鹿ですか」と素気なく言われることは想像に難くない。
ジャーファルは、自分が男に異性として見られる可能性を一切考えていない。原因は俺にあるらしいのだが、ちょっとだけ都合がいいと思っているせいで誤解は解いていない。全世界の男が、見目良く胸が大きい女が好きだなんてそんなことある訳ないだろう。確かに大きな胸の女に目を奪われるがそれはそれ、これはこれ、というやつだ。……誤解を解かなかったせいで、自分の首も絞めているが。
「……ジャーファル」
「なんですか」
「今度、俺も図書館に付いていってやろうか」
「別にいいですよ」
「俺と同じぐらいの背丈なんだろう?ならば、俺が先にお前が読みたい本を取ってやる」
「わざわざいいですったら。……でも、ありがとうございます」
すこし愚痴が過ぎましたかね、と恥ずかしそうに肩を竦めて、図書館で出会う男の話は終わった。
さて、土曜日の昼だ。俺は学生服に身を包み、ジャーファルが部屋から出てくるのを待っていた。
「シン?」
本の入った鞄を取り上げ、先を歩く。ぱたぱたと足音が後を付いてくる。
「シン、どうしたんですか。あなたも?」
「おう。たまには行ってみようかと思ってな」
「制服だなんてめずらしいですね」
「ん、図書館には制服だろう」
「……そんな決まり事ありませんよ?」
隣を歩くジャーファルが何度も何度も俺の顔を見る。俺はジャーファルの顔をちらりと見ただけで、すぐさま視線を前に戻した。制服なのは、真面目なジャーファルに釣り合って見えるようにだ。並んで歩けば、真面目な付き合いをしている恋人に見られるかもしれない。もし、図書館の男がジャーファルに惚れているとしたら、このお似合いの姿を見て諦めるに違いない。ジャーファルは俺の計画には気づかず、「なにか読みたい本でもあるんですか?」やら「もしかして、私が毎週愚痴を零すせいですか?」と落ち着きなく尋ねてくる。
その落ち着きのなさにも心がざわついてくる。……もしかして、こいつもこいつでその男のことが気になっているのではないか。立ち止まり、ジャーファルに向き直ると、足を止めてじっと俺を見つめ返す。
「図書館の受付が美人だと聞いた」
「……は?」
「いやな、シャルルカンが聞いたそうなんだ。だから、俺も一度お目に掛かりたいと思ってな」
「そんな理由?」
ジャーファルの眉根が寄る。軽蔑の色が浮かんでいた。付き合ってもいないのに勝手に嫉妬する男よりは、美人の女目当てに勝手に付いてくる男の方がマシかと思ったのだが、どっちもどっちかもしれなかった。それでも、勝手に嫉妬するのはやはりみっともないにもほどがある。
ジャーファルは呆れたように息を吐き出し、俺が持っていた鞄を取り戻して、さっさと先を歩く。慌てて隣まで走り寄り、鞄を奪う。本の入った鞄はそれなりに重い。
「いいですったら」
「いいから」
「自分の荷物ぐらい自分で持てます」
「……じゃあ、お前を持つぞ」
「はあ?!」
「お前を俺の持ち物と認定して、お姫様抱っこで図書館まで行く」
「馬鹿ですか、あんた!」
「いいや、俺は本気だ。それが嫌なら荷物を寄越せ」
ふんぞり返って言ってやれば、深いため息を吐き出して、仕方なしに鞄を突き出した。嬉々として鞄を受け取ると、なんでそんなに荷物を持ちたいんですか、と呟いてさっさと歩き始める。ジャーファルは肩で風を切るようにして歩く。こつ、こつ、と革靴がアスファルトを叩く心地良い音が響く。俺は、ジャーファルがたまに見せるこの歩き方が好きだ。もちろんいつもの静かに俺の一歩後ろを歩く姿も好きだが。
電車に乗り、隣の大きな市まで付くと、クラスメイトの数人の女子とばったり会った。俺の姿を見つけて、頬を輝かせ、跳ねるように寄ってくる。なにしてるの?どこにいくの?と、矢継ぎ早に話しかけられ笑いながら答えた。ジャーファルは傍らで静かに立って、話が終わるのを待っている。しばらく会話を続けていると、服の裾を軽く引っ張られた。
「……私、もう行きますから。鞄」
そう言い、手を差し出す。俺は慌てて口を開く。
「いや、俺も行く」
「図書館の受付は年配の女性か落ち着いた男性で、あなたが期待しているような方はいらっしゃいません。ですから彼女たちと一緒に行ってあげればいいじゃないですか」
ジャーファルはクラスメイトの女子に微笑みを向けて軽く頭を下げると、俺が持っていた鞄を奪い取る。クラスメイトは期待に満ちた目で俺を見上げてくる。板挟みだ。どうしてこんなことになったのかわからない。悩む間にもジャーファルは背を向けて歩き出している。
「今日は駄目なんだ」
と、クラスメイトに謝り、ジャーファルを追う。誰かと歩く時は歩幅を合わせるが、ひとりの時は相変わらず歩くのが早い。走ってジャーファルの姿を探すが見つけられない。そもそも俺は図書館の場所を知らない。ぼんやりとあの辺りにあったなあ、と脳裡に浮かぶが、あの辺りへどう行けばいいのかわからない。しばらく走り回った後、座り込み、頭を抱える。道を聞こうにも交番はないし、案内板もない。携帯電話を取り出し、ジャーファルの番号へ掛けたが一向に出ない。ジャーファルの部屋で虚しく鳴り続ける、緑色の携帯電話を思い浮かべながら、肩を落とした。携帯電話をしまい、周りを見回す。残念ながら、俺の知り合いや友人、後輩に至るまで図書館や本に縁のある人物はいない。
街歩く人々はせわしなく歩いていて声を掛けるのを躊躇わせた。同じ年頃の女子に聞いてもいいのだが、何故か話が長引いてしまうから避けるべきであるとは自覚している。さて、どうするべきか悩んでいるところに声を掛けられた。
「なにか困り事でも?」
振り返れば、男が立っていた。身長は同じぐらいで、年もそう変わらないだろう。眼鏡を掛けていて、ゆるく癖のついた髪の男だ。やや垂れた目が心配するような色を含んで俺を見ている。この辺でもっとも大きい学園の制服を着ていた。有力者や金持ちのご子息ご令嬢が通う進学校で、名前を知らない奴は少ない。あまりいい印象のない学園だが、すべての人間が嫌味ったらしいとは限らないだろう。
「図書館に行きたいのだが、場所がわからない」
状況を伝えると、ああ、と頷き、
「私もこれから図書館に向かいますので、よろしければ」
と申し出てくれた。それは助かる、と男の隣りを歩けば、何故だかちらりちらりと俺の様子を窺ってくる。目が合えば、曖昧な愛想笑いを浮かべた。どこかで会ったのだろうか。記憶にない。
「……つかぬ事をお聞きしますが」
男はそう前置きした後、
「今、お付き合いのある女性などは」
そんなことを尋ねてきた。
「…………聞いてどうするつもりだ?」
できる限り冷静な声で問い返したつもりだが、難しかった。言葉の険に気づいた男は、軽く体を竦ませ、次に愛想笑いを浮かべる。
「いえ、貴方のような方とお付き合いする女性は一体どんな方なのかと」
貴方のような、という言葉に引っかかりを覚えた。俺のような男とはどんな男だ。親切ではあるが、なんとなく気に障る男だ。初対面でありながら、妙に下手から話しかけてくる辺りにも不気味なものを感じる。
「実は」
不穏な空気を察したのか、恐る恐る男が口を開く。
「姫、いえ、私の知り合いの女性が、どこかであなたを見初めたようで」
「…………」
「幼い頃から付き合いがありまして、できれば、その」
口籠りながら、言葉を落とす。知り合いの女性、幼い頃から付き合いがあるというなら幼馴染みのようなものだろうか。その子の恋路の手助けをしたいのか。息を吐き出し、頭をがりがりと掻く。
「付き合っている女はいないが、……好いている女ならば、いる」
そう答えれば「そうでありますか」とがっくりした様子で呟いた。見たことのない女性を思い浮かべながら、なんともいえない気持になる。肝心のジャーファルは一向に振り向いてくれない。同じ立場であると思えば、その子に同情したくなる。決して言いはしないが。
「あそこが図書館であります」
男の声に顔を上げると、大きな建物が目に入った。重々しい表札に市立図書館と書いてある。なるほど、近くにある図書館とは比べ物にならないくらい立派だ。蔵書もさぞやたくさんあるのだろう。感心していると、男は「それでは」と頭を下げ、先に図書館へと消えて行った。
★
図書館の扉を開けて中に入ると、まず最初に受付のカウンターが目に入った。座っているのは中年の落ち着いた男だ。その後ろにも二三人の司書がいる。俺が勝手にでっちあげた美人はもちろんいない。カウンターの前を過ぎ、ジャーファルの姿を探す。さすがに、もう図書館を出ているということはないだろう。数多く並ぶ書架の合間を確かめつつ進むが、ジャーファルの姿はない。
ようやくのこと見つけたジャーファルは、図書館の奥の方、歴史小説の本棚の前にいた。
「見つけた」
「……シン?どうしてここに」
「俺も行くと言ったじゃないか」
隣に立ち、ジャーファルが手に持つ本を見る。細かい文字がびっちりと詰め込まれていて、その上分厚い。これを読むのか。
「で、男とは会ったのか」
「いいえ。今日は来てないんじゃないですか。毎週毎週ひとりで図書館だなんて暇人にもほどがありますしね」
ふん、と鼻を鳴らして小馬鹿にするが、その暇人と毎週毎週で出会うお前はなんなんだ。
「なんですか」
視線に気づいたジャーファルが唇を尖らせる。なんでもないと首を振るい口を開いた。
「ともかく、その男はいないんだな?」
「ええ。今日は見かけてもいませんが」
「そうか」
先ほど図書館まで案内してくれた男がそうなのではないかと疑っていたが、どうやら違うらしい。そういえばジャーファルを探していた時にも見かけなかったが、どこに行ったのだろう。図書館まで案内してくれた男はさておき、肝心の、背が高くて間抜け面の男がいないのなら、用件はもうない。かといって、さっさと帰るという選択肢ももちろんない。
「……座って本でも読んでらっしゃいな。あちらに雑誌も置いてありますよ」
ひよこのように後を付いてくる俺の姿に、ジャーファルが呆れたように勧める。ジャーファルが指さす方向へ顔を動かし、また戻す。視線がかち合う。
「やだ」
それだけ言い、ジャーファルが抱えていた一冊の本を取る。
「手が開いている方が楽だろう?」
今日の俺は荷物持ちなんだ、と笑ってみせると肩を竦めて、書架へ顔を戻した。退屈といえば退屈だが、楽しいといえば楽しい。こうやってジャーファルに付き合うのも悪くない。周りに人の姿はなく、ふたりきりなのではないかと錯覚しそうになる。もし、俺とジャーファルが恋人同士であったなら、こっそりと口づけなりしただろう。ジャーファルはたっぷりと時間を掛けて、読むべき本を選んでいる。
選んだ本の貸し出しを終わらせたジャーファルが「ありがとうございました」と頭を下げた。
「俺は何もしとらんが」
「荷物持ちをしてくださいましたし、それから久しぶりに気持良くすんなりと本を借りられました」
よっほどその男がストレスの元だったのだろう。別段、俺がいたからその男が来なかったという訳ではないが、そんな野暮なことは言わない。なにはともあれ、本日の愚痴はなさそうだ。俺も安堵する。例え愚痴だろうと、ジャーファルの口から他の男の話は聞きたくない。そうやって図書館を出ようとした時のことだ。背後から声を掛けられた。振り返れば、中学生ぐらいだろうか。可愛らしい女の子が、頬を赤くして立っている。
「君は?」
「あの、わたくし、その、一ヶ月ほど前に困っていたところを助けて、いただいて、それで」
一ヶ月ほど前との言葉に脳裏を探る。しばらく黙り込んだ後、あ、と声を落とす。
「電車に乗る方法がわからなかった子か!」
女の子の頬が更に赤くなる。
「……電車、利用することがなくて」
制服は、図書館に案内してくれた男と同じ学園のものだった。電車ではなく、車での移動が多いのだろう。
「あの、ありがとうございました……」
深々と頭を下げる子に、いやいや気にしなくてもいい、と笑いかける。ジャーファルはすこし呆れた顔をして俺を見ていた。なんだその目は。俺は何もしてない。本当にただ電車の乗り方を教えただけだ。人波に飲まれそうなところを助けようと肩を抱いて引き寄せはしたが、その程度だ。
「それで、お礼をしたくて」
「心遣いは嬉しいが、気にしないでくれ。困っている子がいたら助けるのは当たり前のことだ」
「いえ!助けられたのですから、きちんとお礼をしなくては、わたくしの気持が」
必死に言い募る様子はなんとも愛らしい。思わず笑みがこぼれた。随分と真面目な子なんだなあ。そんなことを思う。
「お茶でも奢ってもらったらどうですか、シン。図書館を出て、すこし歩いたところにカフェがありましたから、そこでゆっくりとお話でもして」
「お前はどうする」
「ひとりで帰ります。子供じゃないんだから」
「俺はお前の荷物持ちだぞ」
「……じゃあ、図書館に戻って本を読みます。ですから、お話が終わったら迎えに来てください」
近くにあるというカフェの場所を教えると、さっさと図書館に戻っていった。残された俺は、不安と期待の入り交じった目で見上げてくる女の子に苦笑を向け、「幼なじみなんだ。じゃあ、折角だから」と歩き始める。
女の子とお茶を済ませ、図書館に戻る。会話はあまり弾まなかった。あがり症なのか、人見知りなのか、うまく話せないようで、頬は始終真っ赤だったし、紡ぐ言葉はたどたどしかった。そんな女の子は多いし、なんだか愛らしく映るから苦痛ではなかった。
ジャーファルは図書館の机に座っていた。本は、読んでいない。目の前に男が座っている。図書館まで案内してくれた男だ。何事か会話を交わしているが、ジャーファルの眉にわずかに皺が寄っている。心がざわざわとし始める。
「……ジャーファル」
座っているジャーファルの後ろに立つと、俺を見上げて安堵したように眉間の皺を解いた。
「シン。あの子は?」
「さきほど別れた」
「そうですか。じゃあ、もう帰りましょう」
立ち上がり、さっさと歩き始めるジャーファルの姿に、男が慌てて立ち上がり、後を追う。腕を掴み、引き留める。
「まだ、話は」
「話ですか。なにかありましたっけ」
緩く口角を持ち上げて問うジャーファルの目は笑っていない。努めて笑顔を作っているようなのだが、逆に怖い。
「ですから、その、私との」
「あなたとの」
「……交流、を?」
「あなたと」
「ええ、そうであります。私と」
「申し訳ありませんが、共通項が見つからないので謹んで辞退させていただきたいと思うのですが」
「あんなに、本の趣味が被っているのでありましたら、話も合うのではないか、と……」
ジャーファルの目が、すっと細められる。
「外で話しましょうか。ここでは邪魔になるので」
言うがはやいか、図書館から出ていく。男は呆気に取られ、次に俺の方へ視線を向けた。男は軽く頭を下げた後、ジャーファルの後を追う。俺もその後に続いた。
ジャーファルは図書館からすこし離れた場所にある広場で待っていた。男が辿り着くと同時に口を開いた。
「やっぱりわざとだったんですねッ!」
怒鳴りつけるためにわざわざ移動したのか。律儀な奴だと妙な感心をしながら、ジャーファルの隣に立つ。
「わざと、ではありません。でしたら、あなたこそわざとでは……」
「どうして私があなた好みの本を調べて、あなたと同じタイミングで、同じ本に手を伸ばさなきゃいけないんですか!」
「それでしたら、私だって、同じでありますし」
「……偶然だって言いたいんですか」
「それ以外に説明は……」
なんとなく蛙と蛇が思い浮かんだ。どちらが蛇で、どちらが蛙かは言わないが。
「ともかく、それなりに気が合うのではないかと思うのですが」
「私は一切思いません」
どんどん刺々しくなるジャーファルの声音にこちらまで身震いする。ジャーファルは怒ると怖い。
「……一度、助けたことも」
「記憶にありませんが」
「ほら、電車で」
「黙れ」
ぴしゃり、と言いつけた後、ジャーファルが俺の方へ一瞬だけ視線を向けた。聞かれてはいけないことを聞かれた、そんな顔をしたのを見逃さず、男の肩を掴んでこちらへ向き直らせる。
「詳しく聞こうじゃないか」
「は?え?」
「電車で何があったんだ」
「大したことじゃありませんったら!大体、あなたには関係のない話ですし……」
口籠るジャーファルの言葉は無視して、再度「何があったのか詳しく教えてくれないか」尋ねる。男の頬は何故か引きつっている。
「……あなた、顔は笑ってるけど、目が笑ってませんよ」
ジャーファルは、はあ、と深く息を吐き出した後、男の肩を掴み、後ろへと引き寄せた。強く引かれたせいか、男がたたらを踏んだ。俺と男の間に滑り込んだジャーファルが顔を上げて、はっきりと言う。
「もう過ぎた話です。ですから」
「…………庇うのか」
「は?」
「その男を庇うのか」
「別に庇ってなんかいません。なんでこんな男を庇わなきゃいけないんですか」
「じゃあ、何があったのか聞かせろ」
「どうしてそうなるんですか」
「なんだ、不都合でもあるのか?」
「…………そちらの方が」
ジャーファルの背後からぽつりと声が響く。
「電車で痴漢に合っていたので、それで」
「――ッ、黙れって言ったでしょう!?」
男の方へ体を反転させ、頬を赤くして叫ぶジャーファルの口を両手で塞ぐ。もごもごと暴れるジャーファルを後ろから抱き込めることでおとなしくさせ、続きを促す。
「……痴漢とその方との間に、体を滑り込ませて、助けたつもりでありますが」
そうではなかったようです、とちいさく息を吐き落とした。ジャーファルの口を離す。体は離さない。ジャーファルは手が早い。
「なんで、よりによってこの人の前で言うんですかっ!」
「………………ジャーファル君」
俺に聞かれるとどんな不都合があるっていうんだ。ジャーファルは途端に黙り込んで、じっとおとなしくしている。おとなしくしていれば許してもらえると思ったら大間違いだ。
「お家に帰って詳しく話を聞かせてもらおうか」
「……うう」
「言ったよなあ。嫌なことがあったらすべて俺に話せ、と。それから、次に痴漢に合ったら電車に乗る時は俺を連れて行けって」
「……あなた、そんな暇じゃないでしょう。そんなつまらないことでわざわざ、そんな」
「時間なら作る。せめて込む時間帯だけでも俺を連れて行け」
「子供じゃないんですから。それに、そこら辺の痴漢なら突き出しています。だから」
と、目の前に突っ立っている男を見る。
「助けなんて大きなお世話なんです」
きっぱりと言い切るのは構わない。言い切るのは構わないが、痴漢に関しては構う。痴漢が捕まろうか、捕まらなかろうが、そんなことは問題ではない。捕まった方がいいのは決まり切っているが、問題はどこぞのおっさんが、俺のジャーファルの体に触れるという事実が許し難いのだ。俺だってそんな触ってないというのに。しかも、精々肩を抱くとか、腰に手を添えるとか、その程度だぞ。
「でも」
男が口を開く。
「……涙目に」
「なってません!」
「しかし、あの時の痴漢は確か……」
「だから!余計なことを言うなと!」
いまにも殴りかかりそうなジャーファルの体をがっちりと抱き寄せ、今度は片手で口を塞いだ。んー!んー!ともがくジャーファルを押さえつけ、先を促す。
「……あー、っと、確か、その、スカートの中に手を」
「ほうほう、それで」
「それで、俯いて体を震わせていたので、私が」
「そうか。ジャーファルを助けてくれて感謝する」
「……いえ」
男はちらちらとジャーファルの方を見ている。後ろから抱き込めているせいで表情は窺えないが、おそらく睨みつけているのだろう。視線を落とせば、腕の中でちんまりと縮こまっているように見える。白銀の髪から覗く耳が赤い。手のひらに雫が落ちた。天を見上げるも、見事なばかりの晴天だ。嫌な予感がして、ジャーファルの顔を覗き込めば、丸い目からぽろぽろと涙がこぼれている。
俺はひどく慌てて、次に男もおろおろし始めた。端から見れば、男ふたりして女の子をいじめて泣かせているだけだ。
「だっ、大丈夫か、ジャーファル!腹でも痛いのかっ」
「いや、あのっ、私は、別段泣かせようなどとは……!」
ジャーファルは腕で乱暴に涙を拭うと、キッと視線を強くした。何も言わず腕を振り上げ、思い切り張り倒した。……男を。
「ッ!」
渾身の力で頬を叩かれ、男がその場に尻餅をつく。眼鏡がすっ飛ぶ。ジャーファルはといえばそのまま走り去った。あっという間に見えなくなる。相変わらず足が速い。
「……すまん」
頬を押さえて、呆然としている男に謝る。
「その割には、嬉しそうで、ありますが……?」
指摘され、表情を引き締める。これは一切脈がないと見ていいよな、と思ったらいつの間にか頬が緩んでいたようだ。足下に落ちた鞄を拾い上げる。中に入っていた本の一冊が零れ落ちそうになって慌てて受け止める。
「あ」
「この本がどうかしたのか」
「……いえ、今日借りようかと思っていた本で」
しばし黙り込み、考える。どうやら本当に本の趣味が同じようだ。やっぱり同じ趣味あった方が仲良くなれますよねー、と後輩が言っていたことを思い出す。男の顔をじっと見つめる。ジャーファルは間抜け面と言ったが、それなりに整った顔立ちをしていると思う。背も高い。しかも、進学校の生徒ということは頭も良く、家柄も悪くないと見える。……下手から話すところを見るに、良家のご子息だかご令嬢だかの付き人のような立場なのかもしれない。そちらの方がしっくりくる。
「名前と、それから連絡先を教えてもらっていいか」
「……それはこちらこそ願ってもない申し出でありますが」
双方共に黙り込み、無言で互いの腹を探り合う。ジャーファルからこの男への好意はないと見ていい筈だ。だが、男の方はどうだろう。交流を持ちかけていたのは一体どんな意図があってのことか、それが気に掛かっている。敵の情報は多いに越したことはないし、どさくさ紛れに俺とジャーファルの付き合いがどんなに長いのか、そういうエピソードを差し挟んでいけば十分な牽制になるのだろう。自分がどれだけ情けない行動をしようとしているのか自覚はある。あるが、ジャーファルがこの男に好意を抱いていないとしても、あくまでも「今は」という話だ。例え、嫌悪だとしても、気に掛かっていることに違いはない。
「夏黄文、と申します」
先に名乗ったのは男の方だった。頭の中で聞いた名前を繰り返し、頷く。
「俺はシンドバッドだ」
手を差し出し、引っ張り上げる。その後は携帯の電話番号とメールアドレスを交換した。すこし虚しかった。
★
部屋を借りているアパートに帰り着くころにはもう夕方だった。ジャーファルの部屋の前に立ち、扉を軽くノックする。耳を澄ませば、かすかな足音が聞こえ、次いで鍵を回す音が鳴った。ジャーファルはわずかな隙間を開け、俺を見てくる。犬が飼い主の機嫌を窺うような顔をしていた。
「鞄を置いていったが、歩いて帰ったのか?」
「……いえ、クラスメイトに電車賃だけお借りしました」
隣の市に着いた時にばったりと会った子たちだろう。帰る途中に俺も会った。
「入れてくれ」
はい、と頷くと、扉を大きく開けた。鞄を手渡し、部屋に戻るジャーファルの後に着いてゆく。ジャーファルは制服から部屋着に着替えていた。部屋の真ん中にあるちいさな丸テーブルの前に正座したジャーファルは、なんだかいつも以上にちんまりして見える。顔色も浮かない。
「……あの、みっともなかったですよね、私」
「いや」
首を振るってみせるが、ジャーファルは顔を伏せたままだ。沈黙が場を支配する。たっぷりのだんまりの後、ジャーファルは囁くような声で言葉を落とした。
「…………あの人、どうなりましたか」
「あの人、とは」
「だから、あの、図書館で、同じ本を借りようとする……」
「ああ、夏黄文のことか」
首を傾け、夏黄文……と呟く。
「親しくなったんですか?」
「いや、別に」
親しくはなっていないし、これから親しくなる予定もない。できれば、このままスルーッと繋がりが消えてくれないものかなあ、とすこしだけ思っている。番号とアドレスを交換した以上、難しいとは思うが。それに俺と夏黄文の繋がりが消えたとしても、ジャーファルと夏黄文の繋がりは消えない。
「気になるのか?」
「……思い切り叩いてしまったので」
「なんだ、反省しているのか」
俺の問いに口を噤んだ後、こくん、と頷いた。仕草は可愛いが、胸がざわついて落ち着かなくなる。
「助けられたのは事実ですし、元はといえば、私に付け入る隙があるから……痴漢にも合うんでしょうし……」
「いやいや、痴漢に関してはお前は悪くないだろう」
「…………それに、その、私一度もお礼を言ってなくて」
「感謝しているのか」
「わかりません。けれど、感謝するべきことだと思っていますし、それなのに、いくら気に喰わないからといって、頬を叩くのはやりすぎですよね?」
そんなことない、と喉元まで出掛かった言葉を、飲み込み「そうだなあ」と肯定する。
「ところで、なんで泣いたんだ」
話を切り替えようと質問する。あまり切り替わってはいないような気もしたが、まあいい。
「……あなたに知られたくなかったものですから」
「そんなに頼りないか」
「いいえ。そういうことではなくて、私、昔からあなたに迷惑掛けてばかりですし、だから」
んん?と首を傾げる。迷惑を掛けられた覚えがあまりないのだが、一体どのことについて言っているのだろうか。
「私のことであなたの時間を削るのは忍びないです。お手を煩わせるのも嫌ですし、……みっともないところを見られるのも、知られるのも、嫌なんです」
心底しょんぼりした様子でそんなことを言う。なんとまあ健気な、と愛おしい気持と同時に、もっと頼れと不満も生まれる。俺はもっと迷惑を掛けてほしいし、我が儘だってうんざりするほど言ってほしい。ジャーファルに限ってありえないが、それでも、そう思う。
「でも、今回のことで、余計にあなたに迷惑を掛けてしまいましたし、今度からはもっとあなたに頼ることにします」
「うん、それがいい。それにしてもたかが痴漢で涙目になるとはめずらしいな」
「……その話、終わってなかったんですか」
「だって気になるだろう」
「あの時は、その、ちょっとばかりタチが悪くて……」
そういえばスカートの中に手を突っ込んでいたという話だった。
「…………」
「シン?」
「まさかと思うが、下着」
「大丈夫です!」
大丈夫じゃねえ。
「……ジャーファル」
「はい……」
「ちゃんとお礼は言った方がいい。いくらお前が気が強く、対処できるからと言って、なんでもひとりで解決しようとするのはよくない。困ったことがあったら、誰かに頼ることを覚えろ」
わかりました、とうなだれるジャーファルの頭を軽く撫でる。
「分かればいい」
あとで俺からも感謝を伝えておこう。親しくなれそうにない相手ではあるが、ジャーファルを助けてくれたことに違いはない。
さて、更に一週間経って土曜日だ。今日はジャーファルにくっついて図書館までは行かなかった。出かける間際のジャーファルは緊張した様子だったから、おそらく今日あの男と会ったら謝罪をし、礼を述べるのだろう。
「どうだった」
図書館から帰ってきたジャーファルに問いかける。
「一応、謝りました。それから、その節は助かりました、と伝えはしたのですが」
「反応は」
「…………やたら愛想が良くて胡散臭かったです」
それはお前の主観が入っているせいじゃないのか、と思ったが黙っておく。
「それで、あの人が本を借りた後に、私が借りる、ということにしました」
「ほう」
「そうしたら、同じ本を取ることはありませんし、読みたい本をすんなり借りられるでしょう?」
にこにこと嬉しそうに言う。ですからもう愚痴を聞かされずにすみますよ、と言葉を続けた。他の男の愚痴を聞かされずに済むのは正直嬉しい。嬉しいのだが、一切なくなると困る。知らん間に仲良くなっていたらどうしようか。そんなことを考え始めた俺のことなど気にも止めず、「では、部屋に帰りますね」と立ち上がった。
「あ、ジャーファル」
「なんですか」
「痴漢、痴漢はどうなった。今日は大丈夫だったのか?」
「……ええ、そう滅多に合う訳でもないので。それに」
と、ジャーファルが伝えた内容は俺にとっては大問題だった。
「あの人が、帰りの電車に一緒に乗って護衛する、というのでしばらくは問題ないかと」
「…………」
「シン?」
「なんで、そういう話になった」
「私にもよくわからないのですが、本を譲ってくれるお礼とかなんとか言って。私は気にしなくていい、というかいらないとはっきり伝えたのですが、頭の血の巡りが悪いようで拒絶は伝わりませんでした」
確実に伝わっていると思う。あからさまな拒絶にも負けず、ごり押しする精神は見事だと言いたいが、一体どういうつもりなんだ。脈なんてひとかけらもないぞ。
たっぷりと考え込んだ後に「お前のことが好きなんじゃないか」と伝えると、嫌そうに表情を歪めた。
「ないでしょう、そんなこと」
にべもなく言うが、恋愛に関してのジャーファルの言は当てにならない。地味で胸のちいさい女が恋愛できない、恋人ができないとはまでは思ってはいないようだが、自分が恋愛の対象になる可能性はないと思いこんでいるせいだ。だから、ジャーファルに恋愛感情を抱いているかどうかの判断をジャーファル本人はできない。幸いにも電話番号とアドレスを交換したし、直接本人を問いつめてもいいのだが、拒絶を露わにされてもごり押しする精神があるならば、諦めないのではないか。
「……ジャーファル」
「なんですか。まだなにか」
「来週は、俺も行く」
「どこに」
「図書館」
「……本も借りないのに?」
「いいだろう。俺が付いていったら問題でもあるのか」
「ありませんけど、……もしかして」
ジャーファルがじっと俺の目を見る。心臓が跳ねる。
「心配、してます?」
眉尻が下がって、申し訳なさそうな表情になった。心配はしている。しているが、ジャーファルが考える心配とはかけ離れているのは確かだ。どう答えるべきか迷っていると、
「大丈夫ですから。本を借りる際の取り決めはしましたからもう愚痴はこぼしませんし、痴漢も、一応守ってくれるということですし、いくら気に触るからといって理由もなしに殴ることはしません」
そう言った。俺の心配事のすべてがジャーファルの台詞に込められている。違うんだ、と出掛かった言葉は結局音として吐き出されることなく腹の奥に沈んだ。
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