「どうして知らない振りをし続けてくれなかったのですか」
目の前に大きな隔たりがあった。女の顔からは表情が抜け落ち、深い闇を讃えた瞳が王を見る。痛々しさを押し隠した笑顔すらもうなかった。抱き寄せようと伸ばした腕から逃げるように一歩、退く。その一歩があまりに遠い。掛ける言葉もなく立ち尽くす王に背を向け、女は駆け出した。闇の中へ深い緑の頭巾が消えてゆく。


「……はぁっ、はあ」
燃えるように熱い息が胸を撫でた。男の武骨な指が乳房をまさぐる。鍛え上げられた指は女のひとりぐらい簡単に押さえつけることが出来るだろう。もっとも押さえつける必要はなかった。誘ったのは女だ。
「ジャー、ファル……さま」
呼ぶ声を知らぬ振りをして、男の頭を強く抱え込む。求める仕草とは裏腹に恐ろしいほど心は冷えていた。舌が、指が、呼吸が、肌を這う。熱っぽい欲望に塗れたそれらが白い肌を蹂躙する。やわらかい皮膚を噛まれ、息を呑む。
「すみません、跡が」
荒い呼吸の合間、許しを乞うように呟く。かまいませんよ別に、耳元で囁いてやれば、ああ……と低く呻いた。床に押し倒され、大きい体が覆い被さる。一瞬、暗い部屋が脳裡に浮かび、慌てて目を閉じた。深い呼吸を二三繰り返し、目を開ける。洋燈が照らす部屋は暗くはないが、昼間のように明るい訳でもなかった。何を考えるでもなく、天井を見上げる。皮膚のやわらかいところ、神経の集まるところ、敏感な部分を指で舌で触れられ弄られれば、それなりに体は反応した。薄い唇からは控えめな嬌声が零れる。それを恥じらいと受け止め欲が煽られるのか、時折、扱いが乱暴になった。
昨日は文官の男だった。酒に酔っていた。誘いかければすぐに乗ってきた。腰を掴み、揺さぶりながら、王との情事はどうなのか、とそんなことを聞いてくるような男だった。王と通じたことなど一度もない。 誰も彼も王のことを気にした。今晩の男だってそうだ。王の、王が、と幾度も繰り返す。忘れたいのに、王の存在はいつも付き纏う。
「気にしないで、あなたの好きなように」
扱ってくれればいい、そう繰り返すのに、男は何度も何度も王の名を口にする。どうしてこんな男と寝ようと思ったのだろう。頭の隅に王の姿が浮かび苛々する。体を引き剥がせば、男は不安そうな顔で見つめてくる。首に腕を回し、体を反転させた。
「……少し黙って」
体と体の間で乳房が押しつぶされる。腰の辺りに跨がれば、猛った性器が擦り付けられた。余計なことを考えずただ犯してくれればいい。押し入られる感覚に、思わず腰が浮く。先ほどまでたどたどしく迷いばかりだった男は、腰を掴み、気遣いもなくそのまま引き落とした。
「――ッあ」
背が仰け反る。自分の体の重みと、引き落とされる強さで奥深くに突き入れられ、涙が零れた。身を捩り、逃げてしまいそうなったのは無意識のことで、しかし逃げることは敵わない。戦慄くことしか出来ない体を弄ぶように、浅く挿入を繰り返す。
「あ、あっ、いや……ッ」
ぞわぞわと快楽が体を撫でる。胸が詰まって苦しい。どうして、こういう時に限って王の顔が浮かぶのだろう。たまらない気持になって、腰を浮かせた。計ったように引き落とされる。体は逃げようとするのに、もっと深く、もっとひどく掻き回して、何もかもを忘れさせて欲しいと願った。奥深くに精を吐き出され、震える。一度、そうしてしまえば箍が外れたのか、その夜は気を失うまで責められた。それなのに、最後に考えたのは、王は、シンはいまの私を見て軽蔑してくれるだろうか、とそんなことだった。


背を向けて走り出した姿がいまも目蓋の裏に焼きついて離れない。一ヶ月程前から様子がおかしかった。異性からの接触のたびに息を詰める、ひとりになりたがらない、ため息の回数が増えた。一度だけ聞いてしまった魘されての寝言。それらの情報だけで判断を下すのは早計かとも思ったが、誰かに傷つけられたかもしれないと思い悩み続けるのはつらかった。だから、問いただしたのだ。
一体、何があったのか。
何もない、と言った。納得など出来る筈もなく、更に問う。頑なに首を振るい、何があるというのです、くだらないこと言わないで、明日も仕事が詰まっている、と努めて笑顔を見せた。だが、知っていると匂わせれば、顔を強張らせた。それでも、何もない、と言い聞かせるように呟く。それでつい、隠すな、誰がそうした、と口に出した。
「……いつから」
問いを返され、意味が分からず首を傾げた。顔を伏せたまま再度問う。
「いつから、知って」
素直に、一ヶ月前から様子がおかしいことには気付いてた、けれど確証が持てなかった、と伝えれば、ちいさく息を吐き出した。そして言ったのだ、「どうして知らない振りをし続けてくれなかったのか」と。
手を伸ばし、救い出したかっただけだ。以前のように笑って欲しかっただけだ。助けて欲しいといえば、全ての力を使って助けるつもりだったのだ。しかし、助けを求めることはなく、遠くへ逃げ出してしまった。
公務は変わらずこなし、態度もそう変わらない。けれど、手の届くところから遠く離れてしまった。どうすればいいか悩んでいたところに、届いた噂話は、最初信じることが出来なかった。そういう奴ではない、思い違いだろう、噂を伝えた部下にそう言えば、言い出しにくそうにしてたが、見たんです、と言葉を絞り出した。


幾度かの呼びつけをことごとく無視していたら、とうとう限界を迎えたのか、公務が終わると同時に腕を掴まれ、私室に引きずり込まれた。部屋の中に投げ出される。乱暴な、と諌める声音で呟くが、返ってくるのは無音ばかり。掴まれていた腕を見遣れば、くっきりと指の跡がついている。
深く息を吐き出す。用件は分かっている。最初に浮かんだのは、面倒なという感情で、次に、放っておいてくれればいいのに、という投げやりな気持だった。
「あなたに迷惑は掛けていないはずです」
逃げようにも扉の前には王が立ち塞がっている。仕方なく、口を開く。
「仕事だってきちんとこなしていますし、滞りもないでしょう?」
「それで」
「だから、こんなくだらないこと」
言葉を綴るたびに、王のこめかみが引きつる。怒っている、ということは嫌でも理解出来たが、それがなんだというのだろう。どうでもよかった。そんなに気に食わないならいますぐこの国から追い出してくれればいい。
「何故」
「好きだからです。男に言い様にされるのが」
「嘘を吐くな」
「嘘じゃありません。あなたが知らなかっただけです、私がこんな女だということを」
誰に抱かれたか、どんな風に抱かれたか、どうやって媚びたか、己の意志とは無関係に唇は滔々と夜のことを語った。いずれ誰が父親か分からぬ子を孕むかもしれません、と口に出したところで、
「もういい」
と遮られた。いい加減、呆れ、軽蔑し、嫌悪したのだろう。今日は、二日前に通じた男が部屋にやってくる。早く帰って準備をしておかねばならない。
「誰でもいい、と言ったな」
「ええ、言いました。誰でもいい。私を好きにしてくれるなら」
「そうか」
もう二度と私に触れることはないだろう。頭を下げ、脇を通り過ぎる。
「……ッ!」
右腕を思いきり掴まれ、痛みで顔が歪む。
「何、を……」
真正面から射竦められ、息を呑む。冷や汗が背中を流れた。本能が告げる。はやくここから逃げなくてはいけない、と。引き剥がそうと身を捩るが、右腕を掴む手は微動だにしなかった。引きずられる。進む先に何があるのは知っている。
寝台に投げ出され、そのまま押さえつけられた。
「やめてください!」
「やめろ?誰でもいいのだろう」
「ええ、ええ、誰だっていい。あなた以外ならば!」
触れてはいけない。この人だけは、私に触れてはいけない。身を捩り、爪で引っ掻く。王の肌に傷を付けることすら厭わなかった。抜け出そうと滅茶苦茶に暴れるも、腕を思いきり握り込められ、あまりの痛みに動きが止まる。二の腕に指が喰い込む。それでも口を開き、離して、と懇願する。
「誰でもいい、と言ったのはお前だ」
抵抗を一言で切り捨て、首に齧りつく。歯がやわらかい皮膚に喰い込む。嫌々をするように首を振るい、両足でもがく。全体重が伸しかかり、身動きが取れなくなった。息が苦しい。呼吸が出来ない。喘ぐように口をぱくぱくさせ、酸素を取り込もうとするが上手くいかない。頭が朦朧としてくる。
伸しかかる体と、力任せの拘束、懇願は聞き入れられず、全ての抵抗が虚しく終わる。その絶望を知っていた。肌を這い回る舌、撫で回す指先。
「……っ、ああ」
目を閉じれば、暗闇が覆う。
「嫌――、いや、やめて!」
ひゅっ、と空気が肺へ入り込むと同時に咽から迸ったのは悲鳴に近い声だった。必死に拒絶と否定の言葉を繰り返す。閉じた目蓋から涙が際限なく零れ、頬を濡らした。外聞や恥じらいなどどうでも良かった。離してくれるならば、床に頭を擦り付けさえしただろう。お願いしますやめてください、幾度も幾度も同じ言葉を繰り返しても拘束は解けることはなかった。
服に手が掛けられ、力任せに引き裂かれる。露になった胸を見て、男が笑う。手が伸びる。ふくらみを包み込まれ、強い力で掴まれた。「あんただって女なんだから」と粘ついた声が嘲笑うように言う。欲に塗れた、熱っぽい視線が肌を撫でる。言い返そうと口を開けば、頬を張られた。「黙って抱かれていろ」押さえつけられたからといって、そんな風に言われる覚えはない。先端を口に含み、吸い上げながら、男が呟く。「ずっとこうしたかった」と。押さえつけて、蹂躙し、好きなように扱って、自分のモノにしたかった、と。嫌悪と怒りが体中を支配した。その癖、罵倒の言葉は咽に張りついて、なにひとつ声にならなかった。嫌悪と怒り、それから恐怖があった。怖かった。どれだけ鍛え上げても、押さえつけられれば敵わない。背筋が凍り付くような劣情を向けられることなど意識したことはなかった。男からの性的欲望など自分には無関係だと思っていた。だからこそ、あまりに強い欲望が目の前に曝け出され、恐怖を覚えた。押さえつけられ、服を引き裂かれ、乳房を弄ばれ、それから何が起こるのかを考えたくない。いまならまだ逃げられると、ばたつかせる足の合間に体を押し進めてきた。腰布の中へ腕が滑り込む。膝を撫で、ふとももを這う。何かが押し当てられる。
「……ッ、シン」
その名前は無意識から零れた。助けて、と音にならない声が続く。助けて、苦しい、痛い、そんな言葉で頭の中が埋め尽くされた。
頬を軽く叩かれる感触に我に返り、おそるおそる目を開く。涙でぼやける視界に、男の影が映る。心臓が凍り付くが、すぐにそれが誰か気付いて、安堵のあまり新しい涙が零れた。腕を伸ばし、首に縋りつく。あたたかい胸元に頬をくっつけ、思いきり匂いを吸い込む。健全で優しい匂い。あなたはいつでも私を助けてくれる、ちいさく呟き、目を閉じる。きっと助けてくださると信じていました、怖かった、でももう大丈夫です、だってあなたが来てくださったのですから、救いを確かめるように言葉を綴る。それから、優しく背を撫でるだろう手を待った。大きな手のひらが、もう大丈夫だ、と慰めてくれるのを待った。けれど、いくら待っても望むものは与えられない。
「シン?」
不思議に思い、頬を引き剥がし、顔を覗き込む。硬直したままだった王は、視線から逃れるように顔を反らす。同時に、笑みが剥がれ落ちた。――助けなど来なかった。あの後、一度では飽き足らず何度も何度も何度も犯されたではないか。咽奥から呼吸がひとつ吐き出される。
この人にだけは知られたくない。
事が済んだ後に浮かんだ言葉が再度脳裡に過る。王が傷付く事柄などあってはならなかった。自分自身に起こった悲劇など、王が知らなければなかったことと同じ。そう思い、必死で誤摩化してきたのに、王は勘付き、何が起こったのか知ったに違いない。だからこそ、こんなにも悲しみにくれた表情をするのだ。胸が詰まる。王にこんな顔をさせたくなくて、堪えようとしていたのに。
「……いらないと言ってください」
自然と言葉が落ちた。
「お前なんかいらないと。傍に置く価値のない人間だと、不必要な人間だと、全て終わって、すべきことがなくなったらどこかへ行ってしまえと、そうおっしゃってください」
激昂も、怯えも、恐怖もなく、ただ淡々とそう言い、ちいさく息を吐き出す。王は悲しみを映した目でじっと見つめ返す。
「そうすれば私は楽になれます」
「……出来ない。俺には、そんなことは言えない」
「いいえ、いいえ、私などいなくてもあなたは大丈夫です。あなたが私のことで心を砕くことなどあってはならないのです」
私がどんな人間か知ったでしょう。自暴自棄になって見境なく複数の男と寝るような人間なのです。全て私から誘いました。自分から腰を振り、あられもない声をあげて、この体を好きにさせたのです。自分の意志です。私が猥らで、だらしのない人間だから、と言い募ろうとする唇を指が押さえた。
「……ジャーファル」
眉を寄せて、ちいさく首を振るう。
「お前がどんなことを言って、失望させようとも無駄だよ」
子供に言い聞かせるように優しく囁く。その目に悲しみはまだ浮かんでいる。心が焦る。王の言葉は優しくあたたかい。支柱が揺らぐ感覚がする。
「さきほどはあんなに怒っていたではないですか。軽蔑したのでしょう?だから」
「軽蔑し、どうせだらしのない女ならば捨てる前に抱いてやれと、お前の目には俺がそういう人間に映るのか?」
「違います、違います……!そんな人ではないと私が誰よりも知っています」
「ならば、どうして怒ったのだと思う」
問いかけられ、言葉が詰まる。
「……分かりません」
絞り出すように答えれば、ちいさく笑った。
「俺には許せないことがいくつかある。他の男がお前に触れることと、お前がひとりで傷付くことだ」
「私は、あなたが知れば、あなたが傷付く、と」
「どうして俺が傷付くと思った」
「それは、あなたが私を大切に思っていることを知っているから、です」
「お前は賢い。ただ、大切に思っているお前が何も言ってくれないことで、俺が傷付くことを知らない」
頭が混乱しそうだった。恐る恐る王の顔を見る。浮かぶのは、悲しみと優しさと、慈しみ。先ほどとはまったく違う表情と、言葉の意味を考えることで思考が埋め尽くされる。
「ジャーファル」
王に名前を呼ばれると、自分の体がきちんと輪郭を持つような気がいつもしていた。
「……すまなかった」
「いいえ、いいえ……そんなこと」
結局、私は自分のことしか考えていなかったのではないか。王が傷付く姿を見たくない。けれど、傷付くか、傷付かないか、それを決めるのは王自身だ。
「ジャーファル、触れてもいいか」
いいえ今は、と言いかけて、思いとどまる。触れて欲しかった。優しく大きな手で触れて、肌を撫でて欲しかった。何も答えなかったのに、肯定を読み取り、大きな手のひらが頬を撫でる。頬を包むあたたかさに息が詰まった。
「ようやく俺を見た」
シンは笑う。その顔は屈託なくとは言えなかったが、穏やかなもので、胸があたたかくなった。この人が笑っていてくれるならばそれだけでかまわないと思わせてくれる。
「お前が望むならば、知らぬ振りをしよう」
許せることではないが、と続け、真摯な目で問いかける。
「もうそんなことはどうでもいい。あなたが変わらず、私を必要としてくれるならば」
簡単なことだ、と破顔する。嬉しくて涙が零れた。無理矢理蹂躙された記憶はそう簡単に薄れないだろう。しかし、王の前ではどんなことも些細なことだ。以前と同じように接し、笑いかけてくれるだけで私は生きてゆける。


それから憑き物が落ちたようにジャーファルは元に戻った。以前と同じように笑い、怒り、俺を見る。数人の文官や兵士が退職願いを出し、その穴埋めに時間を取られたりもしたが、仕事も順調だ。あまり無理をするな、と言っても、楽しいですからといって取り合わない。薄暗い顔をしながら淡々と仕事をこなしていた頃よりはいいか、と放っているが、いざとなれば無理矢理にでも机から引き剥がすつもりだ。
ジャーファルは、退職願いを出した文官や兵士が誰なのかを覚えていないようだった。ならば、男がひとり消えるぐらい気にも止めないだろう。


title:依存に至る道筋