「私にはシンがいるから」
冗談めかして、ではあったけれど初めて気持を伝えた時に返ってきた言葉だ。ああやっぱりそうなのか、と諦めの混じった気持で、それでもやはり落胆し、何も言えず黙り込んだことを覚えている。
「あの人を支え、国の為に働くことで手一杯だから、そういうことは考えられない」
続けて、ごめんね、と眉尻を下げてちいさく笑った。穏やかな陽射しの中で微笑んだあの人と、美しい風景は忘れられない。あれは緑がもっとも栄える時期で、花々の甘い匂いがどこからともなく香る頃だった。世界の色が急に華やぐ感覚。落胆の後だったからなおのこと、それは強い印象を与えた。その後は簡単ではなかったけれど、簡単だった。俺はそれでもかまわない。いざとなったら王サマを優先して、俺のことは捨てていい。だから少しでも好ましいと思ってくれるなら、と口説き落とした。最初は困惑、次に戸惑い混じりの拒絶、最後には呆れて受け入れてくれた。それが1ヶ月前のこと。
夜の風は冷たく心地良い。酔いで火照った体に冷静さを呼び戻す。もう少し飲んでくれば良かったか、そう考えながらも引き返すことなく足を進め続ける。部屋の扉を軽く叩けば、すぐに扉が開いた。どうしたんだい?と首を傾げるジャーファルさんを何も言わず抱きしめる。やわらかい。
「お酒の匂いがするよ。酔ったの?」
「……はい」
具合悪いの?大丈夫?と笑う声が腕の中から聞こえ、腰の辺りをぽんぽんと叩かれた。
「シンは誘わなかったろうね」
「あなたが怒るから」
「そう。きみもやめた方がいいんだけどね、本当は」
「ジャーファルさんが構ってくれるならすぐにやめますけど」
子供みたいなこと言って、と体を揺らして笑う。愛おしくなって腕に力を込める。苦しかったのか、ちいさく息を呑んだのが分かった。
「……シャルルカン?」
「あの」
「うん」
「俺の、……」
俺が何を言おうとしてるのか分かっているだろうか。おそらく分かっていないだろう。王サマの為に働くばかりだったこの人は恋愛の知識についてひどく疎い。自分の部屋に男を招き入れることについてもっと自覚するべきだ。しかも、夜に。もし、自覚した上で部屋に招き入れてくれたというならこれ以上喜ばしいことはないけれど。溜息が零れる。無自覚で、無防備であるから伝えにくいことはたくさんあって、酒の力でも借りなければ勇気も出ない。
「……ものに、なってください」
ぽつり、と耳元で囁けば、黙り込んだまま返事はない。
「あなたの、やわらかい体と、全部じゃなくていい、心を少しだけ」
抱きしめる腕が震えていると気付いたのはしばらくしてからで、きっとジャーファルさんも気付いたことだろう。恥ずかしくなって、おどけてしまいそうになる。けれど、腕の中の人がずっと黙ったままで、身動きが取れなかった。
「…………あのね」
長い沈黙を打ち破ったのは呆れの含まれた言葉だった。
「お酒の勢いで言っちゃうのってどうかなって思うよ」
まったくその通りだ。
「です、よねぇ。じゃあ、また今度言いますね!」
努めて明るい声で言い放ち、腕を離す。嘘だ。俺はもう二度と同じ台詞を言えない。一歩、後ろへ下がり、部屋を出て行こうと思った。腕を離せばジャーファルさんは離れるだろうし、と思った俺の予想は裏切られて、ジャーファルさんの頭は俺の胸にくっついたままだ。俺の腕は、下げられている。
「あの」
「……そりゃ、私はそういうことに疎いけれど、子供じゃないんだから」
頭の中で言葉を繰り返し繰り返し反芻して、頬が熱くなる。抱きしめていいものだろうか、と腕が持ち上がり、けれど実行に移すことは出来なかった。
「いいよ。きみには全部あげられないから、きみが望み、きみに与えられる部分なら、全部あげる」
鼓動がゆっくりとしかし確実に速くなる。震える腕で肩を掴み、そっと引き剥がす。視線から逃げるように顔を背けたジャーファルさんの頬は赤い。嬉しい。感じた気持はそれだけで、その癖、無性に泣きたい気持になる。心のままに抱きしめたい衝動を堪え、手を取った。白くたおやかな手が俺の褐色の手のひらに乗っている。優しく唇を押しつけた。どうか今だけは俺のことだけ考えてくれますように。
:意外と純情な師匠が可愛いです。